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僕は「批判」が出来ない

私は今大学院に所属している。M2(修士2年)なので、今年度は修士論文を書くことになる。一応研究者志望であり、TA(大学の授業補助)をしたり、申請書を書いたりと、徐々にだが研究者としてのキャリアを踏み出しつつある(もちろん準備期間であり、まだまだ序の口なのだが)。

しかしながら、研究者に自分がなれるとは、正直言って思えない。なぜなら自分には論理的に考える能力が欠如している、そう感じるからだ。

もともと私は、研究者を目指して大学に入ったわけではない。大学で4年間を過ごし、そのまま就職し、思うところがあって大学院のPh.Dコースに入学した。それは社会人として過ごす中で、自分がいかに専門的に学んでこなかったかと、一般社会とアカデミアの間にある距離の大きさを痛感したからだ。

幸運にも大学院入試をパスし、現在は恵まれた環境で勉強を続けられている。勉強を続けるうちに研究者としてのキャリアを考え始め、博士課程に進学することを決めた。

それが約一年前である。

それから1年間、職業としての研究者、職場としてのアカデミアがどういった場所なのか、色々考え続けてきた。その上で研究者という職業、ないしは生き方がいかに異質なものであるかも痛感させられた。

研究者とそれ以外の人間で一番異なるのは「批判」に対する取り組み方だと思う。研究者以外の人間だと批判にはあまり良いイメージを持たないかもしれない。「批判するより手を動かせ」みたいなフレーズを聞くことは一度や二度ではないし、批判というのは誰にでも出来る、非生産的な営みに思われているかもしれない。

しかしながら研究者にとって批判とは知的生産の根幹をなす活動である。研究者が論文や記事を読むとき、「ふむふむそうなのか」と素朴に受け止めることは基本的にない。研究者が論文や記事を読むときは、「どこか間違っているところがある」という前提に立っている。読んだ論文や記事の矛盾しているところ、論理展開が甘いところ、主張に過剰・過小な部分があるところ、これらを探しながら読んでいる。語弊があるかもしれないが、研究者の読みは基本的に粗探しなのだ。

研究者を目指す人間は基本的にその読み方が出来ている、もしくはそのように読みたがる。僕の周りにいる同期や先輩、後輩も大体当たり前のようにやっている。それなのに、僕はどうしても「批判」が出来ない。

いや一応ある程度は訓練されて出来るようになったのだが、素朴に「ふむふむそうなのか」と受け止めてしまうことが多々ある。さらに批判をしなきゃいけない状況になると、僕は非常に苦しくなる。僕にとって「批判」は相当に魂が削られる営みであり、正直積極的にはやりたくない。

しかしながら、それでは研究者としてやっていけない。それも分かっている。

こんな話を愚痴混じりに親に話したこともある。親はそれを聞いてくれたが、話の終わり際に「あんたの話は、半分くらい分からんけどもね」と言われてしまった。学外の友達と話していても、理屈っぽさを指摘されたことは幾度かある。

そう、批判が苦しいとか言っておきながら、当の自分自身はどんどん理屈っぽく批判的に物事を考えるように変わっているのだ。

今の自分は批判的に物事を考える能力が欠如している。さらには徹底的に批判的に考える研究者コミュニティに対して、息苦しさを感じている。しかしそれにもかかわらず、現実の自分はどんどん批判的に、理屈っぽくなっている。正直後には戻れないところまで来ている。

たとえ研究者としてのキャリアを諦めたとて、批判的に考える癖はおそらく残り、研究者としては不足だが、一般人としては過剰なまでに理屈っぽい人間が出来上がるだけなのだろう。

知識を海に喩えるなれば、研究者は深い海の深淵まで辿り着くべく、知識の海を潜る。僕も同じく知識の海を潜っていくのだが、一方で浅瀬をちゃぷちゃぷしていたいという感情も持っている。それは決してサボりたい、頑張りたくないという意味ではなく、海を潜っていく上で人格が変わることに対して、僕はあんまり良いことだと思えない、と感じているという意味だ。深海と浅瀬を往復しつつ、海の様子を報告する人間に、私はなりたいと思っている。しかしながら、現実の僕は深海にいても浅瀬にいても生きていけない、謎の生物に成り果てている。

今日僕がこうやって文章を書いているのはある種のSOSである。私は今私を救うために文章を書いている。これから深海に潜るにせよ、浅瀬に出るにせよ、深海と浅瀬を往復するにせよ、まずは私は私を救わなければならない。

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