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修士論文、完走した感想
(RTA勢みたいな小ボケはさておき)
修士論文、無事書き終えましたー!
9月くらいからコツコツと書き続けてきたので、とりあえず提出出来て良かったなと。終わったーー!という解放感よりも、毎日やっていた修論関連の作業がなくなったことによる戸惑いの方が今は大きいです。あと張り詰めていたものが解けた分、むっちゃ体調悪い…
僕が取り組んだのはレビュー論文(経験的研究を伴わない論文)なんですけど、やっぱり妥協は許されなくて、難しくて敬遠していた理論や論争が入り組んでる理論についても、丁寧に説明する必要がありました。論文執筆という作業を通して、一つ一つの理論や概念を自分なりに解釈して、文章に落とし込む経験を積めたのは、とても良かったなと思います。
あと論文執筆を通じて実感したのが、僕に書き手としてのエゴがあるということ。何万字も書く必要がある論文を即興で書き切るのは到底不可能でして、文章の構造や論理展開を明確に意識して、文章を書く必要があります。それはまるで家を建てるようで、図面を書く作業、資材を用意する作業、資材を組み立てる作業、作業プロセスそのものを調整する作業に相当する仕事が、論文執筆にもありました。したがって、今書いているnoteとは違い、構築物を作っている意識を明確に持つ必要がありました。
構築物を作るためには、全体のプロセスを俯瞰する作業と個別のパーツを作りあげる作業を区別した上で、それらを作業ごとに切り替える必要があります(分業の効かない単著での執筆なら特に)。パーツを作る時はパーツ作りに専念して、全体を俯瞰する際には、パーツを作る上で要した時間や労力なとは顧みず、全体の完成度アップだけを考える。こういった切り替えを作業ごとに行うことで、随分論文が書きやすくなったように思えます。
しかしながら、論文執筆というプロセスを単なる構築物を作りあげる仕事にしたくない、という思いが僕には強くありました。構築物を書くつもりで構築物を書いても、面白くないと思ったからです。
僕がこう思う背景には、幼少期から見てきたテレビ番組の影響があります。
(違法アップロード動画を無断転載というゴリゴリにアウトなことやってますがご容赦を)
クラシックとドイツ代表を構築物として、ジャズとアルゼンチン代表を即興的なものとして捉え、それぞれの良いところと悪いところ、目指している境地についてお話ししている。この動画で語られている「「譜面通りにやればいいんでしょ」って思っている時のクラシックの演奏ほどつまらないものはない」という言葉は、論文を書いている最中、強く強く意識していた。
構築物でありながら、即興で書いているようにも見える。文字で作られた巨塔をよく見ると、言葉の跳躍やうねり、うごめきがあって、全て即興で出来ているように思わされる。良い構築物には、どこか飛んでいるところ、ハネているところがあると、私は感じているのだ。
修士論文は、これまで僕が書いてきた構築物の中で、間違いなく一番ストラクチャルな代物だった。しかしながら、どこかふざけているような、読み手を困惑させつつ引き込むようなフックをところどころに仕込むことには成功したように思える。
修論を提出する前、誤字脱字をチェックする意味合いで、全く違う領域の同期と論文の読み合いっこをした。「喫茶店とか入って、タバコでもふかしながらゆっくり読みたいなと思った。」チェックをしてくれた同期がそう言ってくれたのは、僕にとって嬉しい収穫だった。もちろんそれは、学術的な内容に対する評価ではない。それでも、その感想を聞いただけでも、修論を書いた意味があったと、僕はその時感じたのだった。
大量の情報を取捨選択する必要のある研究者にとって、「文章構造を読み解き、構造で文章を読むスキル」は読み手として必須である。しかしながら、読み手としては構造を踏まえた読解をしつつ、書き手としてはそういった読みに猛然と抗うことも出来る。わがままを言っているように見えるかもしれないが、両者は両立・併存しうる。むしろ構造の力に頼った読解を多用する研究者に読まれるからこそ、ストラクチャルな読解を許さない文章を書くことが、プロの書き手には求められていると、私は考えている。そのこだわりこそが、私が持つ書き手としてのエゴだ。
僕の書き手としてのこだわりは、読み手にどう作用するか、今の私には予想出来ない。多くの読者に言葉を運ぶ「翼」になるかもしれないし、研究者としてのキャリアの発展を妨げる「足枷」になるかもしれない。それでも僕は今のところ、そのこだわりを持ち続けるつもりでいるし、そのこだわりで生き延びるつもりでいる。