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延勝寺地先 びわ湖の蓮が大きな群生に 2

 前回の続きです。

 なぜ、蓮は大量発生して、ある年忽然と姿を消すのか?未だによくわからないのですが、私はこれまでの一連の経緯を見るにつけ、蓮が大群生を作っているのを「美しい!」と手放しで喜べなくなってきました。

 先の記事で書いた「早崎内湖ビオトープ」で長年環境保全活動をしている自然観察指導員の友人は、咲き誇る蓮を見て美しいと喜ぶどころか、忌み嫌っておりました。当時の私は、それがなぜなのかわからなかったのですが、今ならよく理解できます。^^;
 健全な生態系は「多様性」とそれによって成り立つ「循環」に支えられているのであって、生命力の強い単一の植物だけがはびこるという状態は、どこか自然のバランスが崩れている証拠なのです。

 蓮だけが増え続けることによって、ますます環境悪化のリスクが高まり、増えに増えて飽和点に達したあとは、とうとう蓮自身もそこでは生き続けられなくなって突然に自滅する。このあたりが蓮の群生が忽然と姿を消す理由なのでしょうね。

琵琶湖岸をドライブ中にこの見事な蓮の群生を見つけて、写真を撮られる方も大勢おられます。
ただ、私としてはこの風景をきれいだと喜んでばかりはいられません。
この蓮の群生が消えた後に残るのは、枯れ蓮が腐敗してできた大量の汚泥と水質の悪化です。
水辺の生態系は特にデリケートですから、このことは様々な生き物に大きな影響をおよぼします。

 特に新しい水が十分に入ってこない池や湿地では、たくさんの蓮が一斉に死滅することは大きな影響を与えますので、自然環境の回復には長い時間がかかると考えられます。あれから8年もたっているにもかかわらず「奥びわスポーツの森」の池には今もほとんど何も生えていない現実。その姿が回復の難しさを如実に物語っているのです。

 ただ、私は自然には自浄システムが備わっているんじゃないか?と考えているんですよね。それは自然が自分自身で健全な姿に戻ろうとする大いなるはたらきです。ですから、長い時間が必要でもいずれはあの池も豊かな多様性を取り戻すはずだと思うのです。

 そうして考えると、蓮が消滅した後の水質の自浄作用もそうですが、俯瞰的に見るならば、蓮の消滅それ自体も自然の自浄作用の一環であるのかも知れません。とするならば、蓮の消滅は自然が健全な姿に戻るためにきっと必要なことだったのでしょう。
 そう思って眺めると、眼の前で咲き誇るびわ湖の蓮が何とも哀れに見えてしかたありません。 


 蓮の群生は美しい。
 しかし、それは本当に豊かな自然の姿なのか?
 だけど、蓮には何の罪もない。
 自然のサイクルにしたがって
 ただただそこに咲いているだけ。

 今回はちょっと分かりにくい記事になりました。
 お許しを。(^^;)


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