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次々やってくる試練の乗り越え方は?「わたしが27歳だったころ」

ファッション誌「with」40周年・特別連載として、2021年12月号に掲載された安野モヨコの「わたしが27歳だったころ」のインタビューです。
この特別連載をまとめた書籍『わたしたちが27歳だったころ』(講談社)が2022年4月に発売されました。書籍化にあたり加筆修正したインタビューをnoteに再掲載いたします。なお、インタビューの内容は掲載当時のものになります。(スタッフ)

さまざまな分野で活躍する女性たちの「27歳」だった頃のお話をまとめた書籍『わたしたちが27歳だったころ』。彼女たちの経験の中には、自分なりの幸せを掴み取り、自信をつけ、内面からも美しくあるためのヒントが。
漫画家・安野モヨコさんからのエールです。

安野モヨコさんからのエール「乗り越えた分だけ、できることが増えていく」

1995年から2001年まで、『FEEL YOUNG』で連載され、単行本の累計発行部数は330万を誇る安野さんの代表作『ハッピー・マニア』。シゲカヨこと重田加代子が理想の恋人を求めて突っ走る生き方が痛快で、もはや恋愛漫画のバイブルと言っていい存在。’98年7月クールに稲森いずみ主演でドラマ化された。当時、漫画の連載を数本抱えながら、イラストエッセイ『美人画報』を書いていた安野さん。その日々は、試練の連続でもあったと言います。

©moyoco anno 無許可転載禁止

友達とご飯に行く約束をしても、行けないことは日常茶飯事。
プライベートは壊滅状態


27歳といってもあまりはっきりとは覚えていません。
『ハッピー・マニア』がドラマ化された後で漫画の連載が2~3本。
その他に『美人画報』というイラストエッセイも書いていました。
取材などで「若くして成功を収めて華やかに見えた」と言われると「え? 何が?」と聞き返すくらい毎日仕事だけの生活を送っていました。

当時は裏原宿に事務所があって、斜め向かいのマンションが自宅。
徹夜明けにメイクは落ちて洋服も皺だらけのまま、おしゃれな人がたくさん歩いてる中を突っ切って帰るときなんかは「大丈夫かな? 不審者として通報されないかな」と常に小走りでした(笑)。
その距離でも毎日、「帰ってすぐ4時間寝るか、お風呂に入ってから2時間寝るか」と、いかに効率よく睡眠をとるかに必死で、友達とご飯に行く約束をしても、自分だけ行けないなんてことは日常茶飯事でした。

そんな中『美人画報』でエステに行ったことなどを書くと、「お金使いすぎ!」と叩かれたりしたんですが、そこしか使うところがなかったんですよね。
整体とか鍼のメンテナンスだけでは足りなくて、遊びに行く気力もないから、寝てるだけのエステでちょっとでも癒やされたかった。

漫画を描く上では内容の次くらいに、アシスタントさんたちとのやりとりに神経を使っていました。
常駐で4~5人、臨時の人を含めるとトータルで10人ほどの自分と同じくらいの歳の女の子たちをどうやってまとめていくか。
みんなが仕事していて楽しい気持ちになれれば、できる作品も楽しくなるし、そもそもスタッフの子たちの士気が低いと自分にも影響します。
だから「なんて言葉をかけたらあの人のパフォーマンスが上がるのか?」とか毎朝身支度しながら考えて仕事に行く。
それで期待以上に仕事してくれたり、仕事場全体がいい雰囲気になったりすると手応えを感じてました。
普通に中間管理職です(笑)。

そんな27歳頃で一番大きかった出来事といえば、23歳から4年間付き合っていた相手と別れたこと。27歳の終わりか28歳になってすぐの頃だったかも。

私は仕事以外の部分はぼんやりした間抜け人間なので「この人と結婚するんだろうな」と思っていたし、なんとなく勝手に、結婚したら専業主婦になるのかなと考えていた。
現実的には親が働いてなくて妹は病気だったので、ずっと実家に仕送りをしていたし仕事を辞めるのは無理なのに。

その彼と付き合い始めた頃は自分が仕事もお金もなかったから気にしたこともなかったのですが、気付くといつの間にか収入の差が開いていました。
少し余裕が出てくると、たまにでいいからちょっと贅沢なお店に行ってみたくなるものです。
私が払うから、と言って誘うのですが、いつも彼に出してもらっていたので彼は、「そういうところは本来なら自分では払えないし、分不相応だから」と言って行こうとしません。
人としては真っ当だと思います。

そして、当時はそんなに珍しくもなかったのですが、彼は基本的に食事代とかは男性が支払うものという考えだった。
その気持ちをないがしろにしたくないのもあって私も我慢してました。
そうしてコツコツと結婚資金を貯めていたのですが彼が車の自損事故を起こしてしまって、貯金をそれに充てるということになったのです。
そのときはもう、「さすがに私が出すから」と言ったのですがそこもダメだと言って聞かない。
家族のこともあるし、漫画家は収入が不安定だから取っておけと言うのです。
払いたい自分と、それを受け入れない相手との話し合いは平行線をたどり、結婚自体を考え直そうという話になっていきました。

別れたのは朝でした。
徹夜明けで家に戻って話をして「今までありがとう」と。
お互い泣いてました。
そのまま家を出て、涙を拭いて何事もなかったかのように締め切りを終わらせました。

一度「結婚」をしておけば気が済む?
初めは続くと思わなかった結婚生活


そんな経緯があったのでもう結婚への希望を失っていて、庵野監督とは絶対離婚すると思って結婚したんですよ(笑)。
一回結婚しておけば、自分も気が済むし、周りにも言い訳が立つと思って。
「一回したけどダメでした~」って言える。
それなのになぜか長く続いているのは、監督には自分を偽らずに正直でいられるから。

私も長年の過労が祟って休んでも続きが描けない。
焦っても鬱が悪化するばかり。
「そこも含めてコントロールするのがプロだろ」「早よ続き描けや」とか言われて辛かったけど、監督は全オタクレベルで「早よ、やれや」コールを浴びていた。
あんなにみんな夢中でエヴァを観て楽しんでいたのに、お礼どころか続きが観たいのに作らない、と罵倒される。
そういう境遇にも、レベルは違いますけど共感しました。
生活すべてを投げ打って作品を作った人がひとりでボロボロになってるのが見過ごせなかった。
健康な生活をして良い作品を作り続けてほしいという気持ちもありました。


正直言ってお互い理想の相手とは言い難いと思いますが、結婚って理想の相手だから幸せにしてもらえる、というものではないですよね。
結婚した後、一緒に暮らしていく中での自分のあり方を考えること。
相手のことを尊敬できるのか、そして同じくらい相手にとって尊敬してもらえる自分なのか、が大事だと思っています。

そういう考えに至ったのも、もしかしたら27歳の頃に何もかも必死だったけどとにかく、「与えられたことは、できること!」と思って投げ出さないでやってきたからかもしれません。
まだまだ体力があってダメージを負っても回復できる年齢。
次々に試練がやってきたときはどんどん乗り越えながら、「どうしよう! こんなに乗り越えてたら絶対幸せになってしまう!!」と考えるようにしてました。
この考え方、おすすめです!

【当時のわたし】

©moyoco anno 無許可転載禁止

1998年から美容雑誌『VOCE』で連載されたイラスト付きエッセイ。メイクやダイエットやエステといった"最新美容"に大胆にチャレンジし、安野さんはどんどん美人道を邁進。美しく生きる上での金言多数。連載をまとめた単行本『美人画報』『美人画報 ハイパー』『美人画報 ワンダー』は合わせて数十万部のベストセラーに。

「わたしが27歳だったころ」が書籍になりました!
悩んで、迷って、「わたし」になった 25人からのエール
『わたしたちが27歳だったころ』

仕事、結婚、出産……人生は選択の連続。
そして、幸せの定義だって、1つじゃない。
さまざまな分野で活躍する先輩方は、27歳だった頃、何に悩み、どんな生き方を選択し、今何を思うのかーー。
人それぞれ生き方があり、悩むタイミングもやり方も1人1人違う。
でも、誰もが悩み、もがいて、走ってきたからこそ、今がある。
俳優、映画作家、脚本家、宇宙飛行士、映画字幕翻訳者、ドラマプロデューサー、など時代をつくり、活躍する女性たちが語る「わたし」ヒストリー。
(オーディオブックの発売は2022年12月を予定)

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安野モヨコ&庵野秀明夫婦のディープな日常を綴ったエッセイ漫画「監督不行届」の文章版である『還暦不行届』の、現在連載中のマンガ「後ハッピーマ…

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