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鈍-nibi-⑧【連続短編小説】
※前回の「鈍-nibi-⑦」はこちらから
「いてっ」
運転席に座る柿崎亮司は眉間にしわを寄せ、唇を舌先で舐めた。鈍い血の味を感じる。その様子を見て、後ろの席に座る井原莉緒が鞄からティッシュを取り出し、助手席に座る姉の井原絵莉に渡した。直接渡すことはしない。ティッシュを受け取った絵莉はそれをそのまま亮司に渡し、小さく笑った。
「ふふふ。なんかつき合ったころを思い出したわ。りょうちゃん、しょっちゅう唇切ってた気がする」
「そうだねぇ、この季節は乾燥するから僕は確かによく切れるんだよね」
そう言って、もらったティッシュで軽く唇を押さえる。白く柔らかいティッシュに、朱色が滲むのを、後ろの席で莉緒は確認する。
「リップ塗らないの」
莉緒は腕を伸ばし、亮司のティッシュを受け取った。ゴミ箱に捨てる。
「持っているんだけどね、つい塗り忘れちゃうんだよ」
今塗ればいいのに。絵莉が言い、そうだよと莉緒が言う。
莉緒が使っていたペパーミントのリップクリームは、亮司が持っている。
「ま、温泉で治癒されるのを期待しています」
そう言って、車を止めた。
目的の旅館に到着。時刻は18時を過ぎ、予定より随分と遅い到着となってしまった。もう陽はほとんど沈んでおり、辺りは薄く白んだ黒が覆っていた。亮司は2人の荷物を取り出し、持ったまま3人で受付に向かった。
結婚前、最後に3人で旅行に行こうと企画したのは絵莉だった。
これまでも3人で出かけることは多く、結婚したからといってそれがなくなるとは思えないが、それでも何かの『区切り』としたかったのだ。その『区切り』が、終着点なのかあくまで中継地点なのか、それは本人たちにも分かっていない。
それで良いと、絵莉も莉緒も思っていた。
口には出していないが、それで良いのだった。
部屋に案内され、そのまま夕飯となった。
せっかくだしと、豪華なプランで予約したかいあって、肉も魚も野菜までどれもとても美味しい。3人はワインを好んで飲んだ。追加で注文したチーズやカナッペなどの軽いつまみも進み、皆そろって満腹となる。座っているのもしんどくなり、最初に寝ころんだのは莉緒だった。
「こんなに食べたの久しぶり、ちょっと休憩ー」
莉緒の隣で絵莉もごろんと寝ころんだ。
「私も休憩!りょうちゃん、先に温泉行ってもいいよ」
絵莉はお腹をさすってみせ、次に右耳の軟骨に触れた。亮司は何となく納得し、一口残るワインを飲み干して、ゆっくりと立ち上がった。
「じゃあ、お言葉に甘えて先に行ってゆっくり入ってこようかな」
「うん、私たちも少ししたら行くよ」
亮司は頷き、簡単に風呂の支度をしてから部屋を出た。部屋の外はどこかひんやりと冷たく、ワインに火照った頬を冷ます。そうして、手持ちぶさたに自身の右耳の軟骨に触れる。
そこには何もない。
「お姉ちゃん、本当に結婚するのね」
莉緒がぽつり呟いた。彼女の頬ももちろん熱い。
その頬に、絵莉が触れる。
「そうよ」
頬の熱を感じ、そのまま指を耳に滑らせた。絵莉が誕生日に贈ったピアスの片方が人差し指をひっかく。熱い。
「どうしたらいいのかな」
今度は莉緒が手を伸ばす。絵莉の頬には触れず、まっすぐに彼女の右耳の軟骨に向かう。もう一方のピアスをつけている。
そろいのピアスは自身がもう一方の片割れであると感じさせてくれた。綺麗でくすんだ鈍色のそれ。
「どうしたら、私だけのものでいてくれるかな」
莉緒は体を起こし、今度は絵莉の頬に触れる。その熱が自分の熱さと同じであることを、段々と理解し始めたのは、絵莉がうっすらと泣いているからかもしれない。
莉緒は絵莉の唇にそっと指を這わせた。
それはとても綺麗で、泣くほどに冷たい唇だった。
続 -鈍-nibi-⑨【連続短編小説】- 10月31日 12時 更新