「芸術とは何か?」には答えがある
人間は、いつの時代のどの場所でも、所謂「芸術」と呼ばれるものの創作や制作に(無闇に)勤しんできた。何の得にもならないし、時に、穀潰しの汚名を着せられながら、しかし、労力を弛まず、財力を惜しまず。
当然、「全人類的疑問」が生じる。「人間にとって芸術とは何ぞや?」と。その答えはすでに出ている。『人間の終わり』の読者諸君にはもう答えの察しがついているはずだ。
勿体ぶるのは嫌いなので、トットと答えを言ってしまえば、芸術作品は全て、「生命現象非依存型知性現象」である。その完成度が著しく低いので、そうとは気づかないが、人間が芸術で実現しようとしているのは、少し言い方を変えてもう一度言うと、〔生命現象に依存しない知性〕の創造なのだ。
【以下、補足もしくは蛇足】
近年の人工知能の発展によって、〔知性は人間(生命)の専有品ではないこと〕に気付かされつつある人類は、しかし、「生命現象非依存型知性現象」」(長いので以下「人工人格」呼ぶ)というと、生成AI的な、コンピュータ的なものを想像しがちだ。だから、人間が人工人格の創造に取り組み始めたのも、コンピュータというものが発明されて以降のことだと誤解しがち。
しかし、よく思い出してみてほしい。読書体験も映画体験も、〔自分ではない知性〕との接触体験に他ならない。本も映画も、絵画も音楽も、登場人物や作者自身の「知性現象活動」の「〔保存・再生〕装置」なのだ。それらの芸術表現に触れたことがある者は、このことを否定しないはず。
要するに、人間は大昔から人工人格を作ることに夢中だったのだ。芸術が永遠の「生命」を持つのは、それが生命現象に依存していないからなのだが、人間はその「出自」故に「知性」と「生命」を一緒くたにしがちなので、ついうっかり、〔芸術には永遠の「生命」がある〕という言い方をしてしまう。で、〔芸術に「生命」を吹き込む〕とか、そういう「間違った」言い方・考え方もしてしまいがち。人間が芸術に吹き込んでいるのは「生命」ではなく「知性(知性現象)」。
そう考えると、人間が芸術に夢中になるのもよく分かる。自身の本質である「知性現象」を〔「生命現象」という「軛」〕から解放する試みが、芸術活動だから、人間の本質にビンビンに「響く」のだ。
芸術には最初から「生命」がないからこそ、半永久的に存在し続ける事ができる。生命現象に依存せずに、知性活動を再現可能な状態で保存する手段が「芸術」。それは「人工人格」輒ち「生命現象非依存型知性現象」以外の何ものでもない。ただ、恐ろしく「原始的」なだけ。
2024年2月14日 穴藤