Saññā 知ろうと意図する心⑩ ルアンポー・プラモート師
(つづき)もしも私たちが感覚を感じ続けてているならば、身体は知る対象物であって「私」ではなくなるのです。一時に留まっていない、常に圧迫され続けている苦しみ・不満足なのです。命令して思い通りにならないもの、年を取るな、病気になるな、死ぬなと命令してもその通りにならないのです。このように知ろうと意図する心をもって知るのです。もしも私たちが正しく知ろうと意図する心をもって、心に生じる楽・苦、善・悪、あるいは眼、耳、鼻、舌、身体、生じて滅する認識作用そのものを観るならば、幸せも苦も永遠に続かないもの、思い通りにならないもの、つまり自分のものでは無い、善・不善も永続するものでは無い、思い通りにならない自分のものでは無い、心(認識作用)も永続するものではない、思い通りにならない、自分のものでは無いのです。
まず「知ろうと意図する心」の訓練が必要なのです、もしも知ろうと意図する心が正しくなければ、本物のヴィパッサナーにはならないのです。
サーリプッタ尊者にこのような教えがあります。もしも、サンヤーに静けさ*があるのであれば、ヴィパッサナー修習を行うことが出来ます。もしもサンニャーがないのであれば、ヴィパッサナーをすることができません。ある人はこのような教えの話を聞いたことがあるかもしれません「サンニャー(想)とパンニャー(智慧)は敵同士です」と「なぜならば、サンニャー(想)は私たちを騙すからです、パンニャー(智慧)はその騙しから賢く逃れるからです」と。しかし本当は智慧はサンニャーの上に正しく乗った上で生じるものなのです。
サンニャーには2種類あります。一つは正しくないサンニャー、サンニャー・ヴィパラートと言います。その中に4つあります。
美しくないものを、美しいものとして認識する事、例えばこの身体は美しくないものですが、「美しいもの」と感じてしまうのです。
一時に留まらないものを「変わらないもの」と認識する事。苦(不満足)なものを「楽」と認識してしまうこと。
自分のものでは無いものを「わたしのもの」と意図をもって認識する事、「わたしの」「じぶんの」という感覚を持つのです。思い出すと「わたしの」となってしまうのです。腕や指をみると「私の指」「なにもかも私の身体」となってしまうのです。
もしも私たちが「知ろうと意図する心」を正しく訓練したのならば、(自分の身体に)触れて試してみてください、手は「わたしの」と言いますか?手は「わたしの手」としゃべりますか?聞いてみて下さい・・・・。
手は「これは私の手です」と一度もしゃべったことがありませんね。知る意図の心が誤っている「これは私の手」と感じてしまうのです。
ですから、「正しく知ろう意図する心」を訓練するのですよ。心を以前の誤った意図の心のままにして置いてはいけません。「あれも私の」「これも私の」このように観ていては考えが生じるたびに「全部私のもの」に心が慣れてしまうでしょう。考えが行ったり来たりしているうちに「わたし」というものを信じてしまうのです。ディッテイ(見解)が生じるのです。信仰する事です。誤ったものの見方、ミッチャー・ディッテイ(邪見)です。
ミッチャー・ディッテイ(邪見)を壊すには「正しく知ろうと意図する心」を訓練しなければなりません。座っているのであれば「身体が座っている」と感じるのです、心はそれを観て知るのです。「身体は物質である」そして「身体はこの世界の財産である」と観るのです、どこにも「わたしの身体」は無いのです。(つづく)
*サンニャーサマバット สัญญา สมาบัติ