【ゲーム感想】bloodborneとウテナ、そしてちいかわ

この猛烈ハードでスルメのようなやりごたえに何度コントローラーを壁に投げたか覚えていないし、死んだ回数ももう覚えていない。
大体100回を超えたあたりで数えるのをやめた。

人生初の死にゲー

はっきり言って、死にゲーをプレイした経験はなかった。
それどころか「フロムゲー」初経験を、実はこのbloodborneに捧げることになった。
フロム信者の友人に「絶対にお前向きだからプレイするべき」と言われたので、ならやってみようと思ってベストプライス版で購入したのがきっかけだ。
それまでは何とも自分が好きそうな世界観のゲームがあるな!と思っていたのだが、死にゲーであるということを理由に遠ざけていた。

そもそも死にゲーは相性があって、私みたいな短気で1回でぱっとクリアしたいタイプの人間には全くもって向いていない。
私の場合、何度も死んでやり直し、試行錯誤しながら進めていくことにカタルシスを得るタイプではないのだと思う。
死にゲーが好きな人は、何度失敗しても粘り強く、そして根気強くプレイができる人だ。ひとつひとつ仮説を立てて順番に試していき、その結果にカタルシスを得ている。
はっきり言って、このプレイスタイルを考えてみても私向きではない。
強くてニューゲームくらいでちょうどいい。

まずヤーナムキャンプファイヤーの時点で相当な回数死んだ。
この時点ですでにデスカウンターは20回を超え、そのうちにこざかしいことを覚えた。
「手前のやつにだけ石を投げて気を引く」みたいな戦法を使って一匹ずつおびき出し、ぶっ叩いて殺せるようにはなったりしたのだ。
こういうところは成長しているが、かといってその部分に楽しさを覚えているかというと、全くそんなことはなかったのが、また私っぽいなと思う。

ではどこで初めて面白い、と思ったかというとガスコイン神父を倒すことができず、半年近く放置した後だった。

相当な回数ガスコイン神父にぶちのめされ、BGMがもはやトラウマになってきたころにこりゃだめだと諦めて、半年間原神と無双ばっかり遊んでいたのだ。ところが、ふとある日「ブラボ、やろうかな」と思った。
そして起動して何となくガスコイン神父を殴ってみたら、5回目くらいであっさりと倒せてしまったのだ。

twitterでそのことを呟いてみたら、そういう人が多かったのは意外だった。
また歴戦のフロムゲー猛者がおっしゃるには「勝てないときは寝た方がいい」ということなのだそうだ。
これは2ちゃんねる(今は5ちゃんねるか)のフロムゲー板でもよく言われることらしく、何度も負け続けると頭に血が上るし、疲れてくる。だから休んで切り替えようということだそうだ。

つまり私は意図せず、そういうことを運よくできたということだろう。
そこからはもし何度も連続で死んでしまったら、サクっと諦めてやめるようにした。試行錯誤してもダメなときダメなものだ。
そのときにうすらぼんやりとだが、「あ、このゲーム面白いかもしれない」と思った。特にガスコイン戦前後のイベントを見て感じた。

ところがそんな諦めを覚え、かじりついてプレイした割に結局死にゲーそのものの面白さの真髄については、理解することなくクリアした感じがする。
では一体私は何に惹かれていたのだろう?
ヤーナムのあの陰鬱な空気、うろつく獣の気配、獣狩りの血に酔う雰囲気。
多分このあたりだと思う。ゲームそのものの楽しさではなく、あの世界観にこそ惹かれている。
その世界観の先を見たいという気持ちだけでプレイしていた。
だから私が今後プレイしてまともに遊べる死にゲーは、エルデンリングをプレイしている今ですら、きっとbloodborneだけだと思う。
そう、私はもう立派な血に酔った狩人さんだったのだ。

「bloodborne」とはどういうゲームだったのか

さて、bloodborneはストーリーが存在しない。
厳密に言えば存在するのだが、それは一人一人のプレイヤーにゆだねられている。だからゲームの表面上、ストーリーは存在しない。
そういうことなので、一体どうしてヤーナムがあんなことになったのか?獣とはなんなのか?教会はどうしてこんなことになったのか?と言ったことは何にも分からない。
なので結果的に自分で妄想するほかない。こういうところも好きだ。

では私はどんな風にこのゲームの世界を想像したかというと、すでにそれを言い表してくれている人がいるのでお借りすることにする。
ゆるふわ系漫画として人気を博している「ちいかわ」を指してこんなことを言った人がいる。

「全年齢版bloodborne」

今ならば言いたいことが分かる。
「ちいかわ」はかわいらしいちいかわ達が、場合によっては恐ろしいキメラになってしまうかもしれない世界だ。
さて、ちいかわ達は最初からキメラだったのか?キメラが今ちいかわではないと断言できるのか?
ちいかわたちはそのことを自覚していない。

突き詰めるとbloodborneもこういう話になってくると思う。
人間は生まれながらにして獣なのか?それとも獣の病を得たから獣になるのであって、人間は獣でないのだろうか?
そのことは啓蒙の有無によって姿が見えない上位者や、強さすら変わってくる敵がいることにも繋がっている。
啓蒙の高い者たちは、自らやこの世界を俯瞰的にみることができる。それによって彼らが「こうだ」と認知したものが「こう」なる。
それがbloodborne、ひいてはヤーナムのルールだ。

ちなみに個人的にbloodborneは「R指定版少女革命ウテナ」だな、とも思っている。「少女革命ウテナ」はキャラクター自身の認知によって物事が姿を変えることを徹底して表現したアニメだ。

ウテナには「柩の中の少女」というものが登場する。
この「柩の中の少女」が一体誰なのか?というのは物語の中で重要な要素の一つとなる。
例えば9話では、冬芽にとって「柩の中の少女」は主人公ウテナだけど、西園寺にとってはもう一人の主人公アンシーだ。

この時の西園寺にとっては「『永遠が欲しい』と言った柩の中の少女に、自分が永遠のものを見せたい」という思いが最も大切なのであって、そこに今のアンシーを当てはめているだけだ、ということだ。

だが、「西園寺が『柩の中の少女』という概念にアンシーを当てはめている」という事実があるときは、物語内ではアンシーが「柩の中の少女」になる。

どういうことかというと、この作品の中では「誰か(キャラクター)が、その概念を認知している時、その概念が物語の中の現実に反映される」というルールが存在するということだ。
だからこの時にもしも、「柩の中の少女」が「少女ではなく冬芽だ」と西園寺が認知したとしよう。そうなると作品の中で「柩の中の少女=冬芽」ということになったはずだ。
現実ではありえないし、冬芽は男性だがウテナの世界の中では成立する。これこそが「少女革命ウテナ」という物語の根幹的なルールなのだ。

繰り返すがbloodboneでもこのことが当てはまる部分がある。
たとえば「ヘムウィックの魔女」は狂気者を召喚するかなり強いボスだが、啓蒙0の状態では、この厄介な狂気者を召喚することがない。
啓蒙というレンズがなければ、「ヘムウィックの魔女」が狂気者を召喚する存在であるということを認知できない。
そのことをプレイヤーが認知できなければ、召喚できないことと同じだ。
何故ならプレイヤーがそう認知しているから、そういう「ヘムウィックの魔女」が現実に反映される。

或いはプレイヤーは余所者であり、狩人であり、カインハーストの女王の血を受け入れたためにカインハーストの一員であり、また上位者の赤子でもある。
全てが同時にはなしえないと思ったとしても、プレイヤーが認知しているからそうなりうるのだ。

啓蒙とは認知の違いであり、ある種の偏見だ。そのことを積み上げていくことで本来とは違う考えに到達できる…と考えるとしっくりくる。
ちいかわもウテナもbloodborneも、みんな「世界をどの目で見るのか」ということを描いているのかもしれない。
私たちは狩人さんという名の啓蒙の眼鏡を通して、ヤーナムの街を見ている。だからそうなる。ただそれだけ。

いうなれば今、私が書いている各種妄想記事もbloodborneに通じてくる。
要するに「私はこう思っている」という偏見のレンズを通してゲームを遊んでいるということだ。
私と友人がそれぞれ原神を遊んでいる時、崩壊3rdという啓蒙を通した私と通さない友人とでは、ストーリーの認識が変わるのと同じことだ。
そのことをゲームで表現しているのがbloodborneだ。

「全年齢版bloodbone」ちいかわの今後

さて話は変わるけれど、ちいかわたちが「自分たちがキメラになりうる存在だ」と理解した時、一体何が起きるのかがめちゃくちゃ怖い。
一体ちいかわたち自身が「キメラになりうるのだ」と思った時に、彼らはどうするのだろう?
同じ作者が描く「もぐらコロッケ」は、すでに一匹が「自分が揚げたてサクサク中はしっとり美味しいコロッケであること」を自覚している。
そして周囲の仲間も同じコロッケであることを認知している。
その結果共食いが発生していて(なんであの絵柄で共食いするんやという疑問はさておき)、ちいかわたちもそうなってしまうのではないかという恐怖がある。

我々読者はすでに「ちいかわはキメラになりうる」と認知している。
私たちがそのことに気づいたのは「あのこ編」と「もふもふキメラ編」だ。そしてその認知によって「ちいかわ」の世界観は一気に邪悪さを増した。
そのことに気が付いていないのはちいかわたちだけだ。
彼らの啓蒙が上がったとき、一体ちいかわはどうなってしまうのだろう?
考えるだけでゾクゾクする。

bloodbornの世界では、人は生まれながらにして獣なのか、そうではないのかについて明確な答えは出ていない。
ただ、プレイヤーは啓蒙が高まりすぎると発狂して死んでしまうことは事実だ。
これは何か気づいてはいけないことに気が付いてしまうから死んでしまう、と考えるとしっくりくるんじゃなかろうか。
啓蒙のレンズを通して、見てはいけないもの、知ってはいけないことを知ってしまったがゆえに、その事実に耐えられず死んでしまう。

さて、狩人さんは発狂して死んでしまった。ではちいかわたちは?
彼らは本当に「ちいさくてかわいい」だけの存在なのだろうか?

今後の全年齢版bloodborneの行く末も目が離せない。

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