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結界のK:Anizine

寿司屋の一人息子が事故で亡くなりました。店の近所で起きたトラックの横転事故に巻き込まれたのですが、あまりに突然のことでしたから、大将の悲しみを目にした常連客はいたたまれなかったといいます。

三宿の交差点でホノカを待っていたシンジはアルバイトの給料日前であまりお金がなかったので、ガストか世田谷公園前のデニーズに行こうとしていました。インテリアショップの前のガードレールに腰掛けていると、足元の植え込みに黄色い蛍光色のマジックテープで止めるタイプの財布が落ちているのに気づきました。周りに誰もいないのを確認して拾い上げて中身を見ると、学生証、キャッシュカード、クレジットカード、カラオケボックスの会員証、そして現金が8万円入っていました。一緒に入っていたATMのレシートの日付は数ヶ月前のものでした。現金だけをまとめて抜き取りポケットに入れ、財布をバッグの中にしまったところでホノカが近づいてくるのが見えました。

「ねえ、なんで交差点って言ったのにこんなところにいるのよ」
「そんなに離れてないだろう。交差点から見えるし」
「あたしお腹が空いてるの。ここで待ち合わせってことはガストかデニーズだよね」
「いや、今日は違う」
「へえ。どこ」
「今、食べログで調べてる」
「珍しいね。給料日前なのに」
「うるさいよ」

すぐ近くに店を見つけて予約の電話をすると18時から席が空いていたので、20分くらい遠回りの散歩をしながら向かうことにしました。

「ねえ、電話で予約するような店なんて行ったことないじゃん」
「たまにはいいだろ」
「あたし、こんな格好でいいのかな」
「いいよ、別に」

そういうシンジも実はこれほどちゃんとした店には行ったことがなかったので緊張し、5分前には店の前に着いていました。店は雑居ビルの三階にあり、何度も前を通ったことがあるはずですが、看板が小さく控えめなのと自分には縁のない種類の店なので存在に気づきませんでした。

「いらっしゃいませ。先ほどお電話でご予約の」
「はい。そうです」

和服を着た女性の店員がカウンターの席に案内してくれました。開店が18時なのでまだ他に客はおらず、大将は魚の入ったケースを無言で丁寧に整えていました。しばらくしてふたりの前に立った大将はそれまでの真剣な表情を一変させ、

「いらっしゃい。おまかせでよろしいですか」

と声をかけました。こんなにちゃんとした寿司屋に来たことがなかったふたりは、大将の人なつこい笑顔を見てホッとしています。

「僕らはこういうお店に来たことがないので何もわからないんで、よろしくお願いします」
「そうですか。寿司なんてものはもともと江戸庶民のファーストフードだったんですから、気取って肩肘張る必要なんてないんですよ」
「そうなんですね。僕らはたまに行くとしても回転寿司なんで」
「じゃあ、最初はプリンから行きますか」
「え」
「冗談ですよ。回転寿司に慣れてるって言ったから」
「勘弁してください。本当にそれが冗談なのかどうかもわからないんで」
「すみません。お嬢さんは何を飲まれますか」
「私はお茶で。あがりって言うんでしたっけ」
「いえいえ。それは職人同士の符牒なんで、お客さんは『お茶』でいいですよ」
「そうなんですね」

シンジとホノカは生まれて初めての素晴らしい寿司を堪能しました。

「ねえ、なんで今日はこんなところに来たの」
「別に理由はないけど、たまにはいいかなと思って」
「だって、すごく高いんじゃないの」
「声が大きいよ。気にすんな」

メニューにも壁に掛かった魚の名前にも値段は書かれていないのでホノカは心配しましたが、シンジはすでに店の雰囲気に馴染んだ様子で、大将と仲良く話し込んでいました。

「それ、すごい包丁ですね。日本刀みたいです」
「これはね、柳刃っていうの。30センチくらいある」
「なんて彫ってあるんですか」
「堺一文字。関西の包丁なんだけど、これはもう年季が入っているので、息子が今度新しいのを買ってくれるって言ってたよ」
「そうですか。まな板の上に包丁を置くとき、こちら側に刃を向けていますけど、それはどうしてですか」
「これにはいくつか意味があるんだけど、まずは職人が怪我をしないように。刃を手前に向けていると指が当たって切れることがあるからね。あとは客との間に『結界を張る』という意味もあるらしいんだ。ここから先は自分たち職人の聖域だから客は踏み込むなよ、と」
「へえ。面白いですね」
「店によっては反対のこともあるらしいから、よくわからないけどね」
「いろいろ勉強になりました。美味しかったです」
「ああ、また来てください」

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Anizine

¥500 / 月

写真家・アートディレクター、ワタナベアニのzine。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。