活字離れとは:Anizine
誰も聞いていないのに自分の話を始めるのは危険な兆候です。それをしていいのは、皆がその人の発言を待っている人気アーティストのような場合だけで、我々のようなそこら辺の雑草魂が「今日は定期検診で病院へ」なんて言っても「行けば」と三文字で切り捨てられるでしょう。切り捨ててくれるならまだましで、無反応が多いはずです。
では自分の近況を書けないではないか、と言われるでしょうが、別に書かなくてもいいのです。誰も頼んでいませんから。ソーシャルメディアの誤解は「書くべき場所が見つかった」と思い込んでいるところで、そもそも情報を発信するべき人は、あらかじめ受信者を持っている人々だけだったのです。2000年あたりから始まり、スマートフォンが普及した2010年くらいから誰でも自分の情報を垂れ流す垣根が低くなりました。
たった数十年で発信する人が過剰になったのです。それまで一般庶民は雑誌や新聞に載ったことを「活字になった」と言っていました。小説家や批評家などしか発言の機会がない場所に、ほんの少しだけ自分の名前が載ることを誇らしく感じていたわけですが、それがソーシャルメディアで一気に「誰もが発信者である」というかけ声とともにコンビニで買ったお菓子の写真を載せて「これ、うんめえ」と書き散らかすようになりました。
活字離れが進んだというが、みんな毎日ネットで大量の文字を読んでいる、という意見を聞いたことがあります。しかしそれは数十年前の「書くべき人が書く」という基盤が崩れただけでしょう。ここでいう『活字』とは、考える必要がある文章のことで「これ、うんめえ」というツイートではありませんから、知識や理解を前提とする文章からはどんどん離れていっているのが現実です。
皆さんは、次の画像を見てどう感じるでしょうか。
多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。