見出し画像

自分ガチャ:写真の部屋(無料記事)

大の大人が「ガチャ」などという言葉を使って何かを語ろうとするのは幼稚極まりないのですが、あえて書きました。私の仕事は写真とデザインなのですが、それは俗に言う「よき親ガチャ」の賜物だと思っています。

写真家の幡野広志さんは、写真の才能はほぼ遺伝である、とよく言いますが、まったく同感です。

先天的な能力と後天的な努力で作られるのが自分だとするなら、生まれた環境が素晴らしい「よき親ガチャ」は立派な才能だと言えます。これは自分のチカラではどうにもならないので運ですが、その後は『自分ガチャ』という自助努力にかかってきます。ただ後天的な努力には限界があって、身長が足りなければバスケットの選手には向きませんし、反対に大きすぎれば競馬の騎手になることはできません。

私の家は祖父が染め物の仕事をしていて、日本画や歌舞伎、落語が好きでした。祖母はあまり過去のことを教えてくれませんでしたが若い頃は文章や短歌などを嗜んでいたようです。伯父がアートディレクターをしていたこともあり、祖父母の家の本棚には外国の文学書やデザインの雑誌などが並んでいて、私はそれらを眺めて育ちました。小学生の頃からオグルヴィやDDBのデザイン・ストラテジーに影響されていたのです。

もし家にデザインや文学書がなかったら、おそらく今は別の仕事をしていたでしょう。これが親ガチャの始まりです。ちょっと嫌な言い方をしますが、18歳くらいから「デザインに興味を持ったからそっちの方向に行きたいんだよね」と鼻息荒く言っている人を見ると「え、今から」と思ったものです。ほとんどの人は18歳から野球やピアノを始めたりしないでしょう。3歳から始めて、18歳では「私の能力ではプロにはなれない」と諦める年齢だからです。デザインや写真がピアノや野球と違うところは本当は何もありません。一番脳が柔軟な18歳までの時期に、そこで使う思考領域をまったく動かしていなかった人は、3歳から始めた人と同じようにはできないのです。

私が文章を書き、絵を描き、デザインを仕事にすることができたのは8割以上が幼児期の環境のおかげだと思っています。お恥ずかしい話をしてしまうと、それが原因で30代から40代の時期を無駄に過ごしてしまいました。自分ではまあまあできると思っていたのに、必死で後天的な努力をしていた人にウサギとカメさながらに追い抜かれていることに気づきました。

「デザインや写真は、運指と同じだから」と言った友人のミュージシャンがいました。何も考えず、子どもの頃から数千回、数万回、鍵盤の上で指を動かしてきた人だけが無意識にできる行為だというのです。「無意識」は自覚していないだけで膨大な時間と意識の積み重ねでできあがっています。

その感覚がわからないと、「これはいいカメラだ」「この表現が流行っている」という表面的な情報だけに左右されます。極端な場合、自分には美術的な才能がないから写真を始めました、などという人もいますが、バカを言うなと思います。


ここから先は

0字

写真の部屋

¥500 / 月

人類全員が写真を撮るような時代。「写真を撮ること」「見ること」についての話をします。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。