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エレベーターの中で:博士の普通の愛情

マンションのひとつ上の階に大家さんの息子家族が住んでいる。居住者同士に何の交流もないのは新宿という場所柄のせいもあるだろう。僕が挨拶をするのはその家族の若いお母さんひとりだけだ。30代前半のように見える。もちろん年齢などの個人的な話題に踏み込んだことはなく、エレベーターの中で会ったときに「天気が悪くて嫌ですね」くらいのことをたまに言い合うだけだ。旦那は大家さんの息子で、管理人は管理会社から別の人が来ているので具体的な仕事は何もしていないはず。父親の家賃収入で暮らしているボンボンだということが容易に推測できる。朝から中野のパチンコ屋の開店前に並んでいるのを見たことが何度かある。

ある日の午前中、そのお母さんとエレベーターが一緒になったときに「これ、主人に渡し損なったんですが、よかったらどうぞ」と紙袋に入ったお弁当をくれた。ラップにくるまれたサンドイッチとフルーツだったので器を返す手間もないからと。今まであまり意識したことはなかったが、小柄で高校生のようにも見える彼女の指の痕跡を感じるようにサンドイッチを食べた。彼ら夫婦には幼稚園に通う男の子がひとりいる。引っ越してきた当初は見た目の怖い僕と同じエレベーターに乗ることすら避けていたように感じた彼女だったが、その男の子が僕に「こんにちは」と元気よくあいさつし、僕が「ちゃんとご挨拶ができて偉いね」と言ったことから、少しは壁がなくなったような気がする。

サンドイッチの次に会ったときはマンションの玄関で、休日に彼ら家族が3人でエレベーターを降りて出ていくところだった。彼女はほんの少し会釈をし、子供は僕に手を振る。それが面白くなかったのか旦那だけは完全にこちらを無視して通り過ぎた。うちの親父のマンションに住ませてやっているやつ、くらいにしか思っていないのだろう。僕はその態度に腹が立ち、問題にならないギリギリの線まで彼女に近づいてやろうと決めた。

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恋愛に関する、ごく普通の読み物です。

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多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。