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誰も渡れぬ河:写真の部屋

写真というのは100年以上前からほとんど進化していません。フィルムからデジタルに移行する革命も体験しているのですが、写すこと自体は媒体によって何も変わりがありません。写真は湿板であろうが乾板であろうが同じで、小説は万年筆で紙に書こうがパソコンで打とうが全部同じです。

根っこにあるのは「偶然性の排除」だと思っています。ここはかなりのデリケートゾーンなので、一晩かけて精密に話す気持ちがない人とは議論できませんが、『偶然』という表現がもし誤解を招くとするなら、根拠と言ってもいいでしょう。

私がどこかに出かけて行って誰かに会って写真を撮る。

写真に関して言うと、昨日までソウルに行って写真を撮っていたのですが、そこには紛れもない「ソウルでの時間と体験」が閉じ込められていて、私が求めているのはその時間と経験をカタチにして残すことです。他人から見て優れた写真でなくてもいいのです。誰に命令されることもなく自分が撮りたくて撮っているのですから。ここでシャッターを押すこともできるが、押さないこともできる、という瞬間の判断と個人的なチョイスの積み重ねです。

ここで問題になるのは「アート」としての存在理由で、それが今書いたように「いい写真だと思われなくてもいい」ということです。できあがったモノに自分以外の人が感じる価値などなくていいと思っています。人物を撮ったときは、写っている人が喜んでくれるという副産物としての価値はありますが、それだけが目的でもなく、テニスの壁打ちのようなものです。点数も入りませんし、勝ち負けもありません。やりたいときにやってお腹が空いたらやめるだけです。

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写真の部屋

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人類全員が写真を撮るような時代。「写真を撮ること」「見ること」についての話をします。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。