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エンドロール:博士の普通の愛情
この歳になると便利な仕組みが使えるようになることを若者に教えておきたい。それが時効だ。トップギャランが「胸に棘刺すことばかり」と歌った青春時代は、あとからほのぼの思い、笑いながら味わうことができる。今日の話は、いま映画館の座席に座っているひとりの中年男性の40年前の出来事だ。
彼はイラストレーターを目指す専門学校生。当時はイラストレーターが時代の花形だった。『イラストレーション』という雑誌には公募のコーナーがあり、そこに自分の絵が掲載されることを誰もが夢見ていた。彼もそのひとりで、空山基、ペーター佐藤、湯村輝彦、山口はるみ、永井博などといったスターたちの絵を、目を皿のようにして眺めていた。
彼が表参道にあるギャラリーに行ったときのこと。誰の展示だったかはもう覚えていない。ちょうど初日らしく、オープニングパーティが始まろうとしているところだった。そこに集まるのはイラストレーターの友人や仕事仲間のデザイナー、編集者のような人たちだろうから、場違いな自分はさっと絵を見回すとすぐに帰ろうとした。
「おいおい、もっとちゃんと絵を見ていけよ」
背後からそう言われ、肩をわしづかみにされた。ある著名なアートディレクターだった。絵の専門学校に通っているならじっくり見ないと作家に失礼だぞ、と言われた。すでにシャンパンを飲んでいるようで顔は赤く、息は酒臭かった。それを隣で笑って見ていたのは憧れのイラストレーター、Aさんだった。
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彼が絵を志したきっかけは地元のデパートの広告のためにAさんが描いたポスターイラストで、夕陽を背景にした女性のシルエットが美しかった。それを見た中学生の彼は衝撃を受け、自分も絵が描きたいと思うようになった。しばらくの間、店内をうろうろしていたが勇気を出してデパートの店員に声をかけ、「掲出期間が終わったらそのポスターをもらえませんか」とたずねた。若い女性の店員は「いいけど、予備の新品があったと思うから見て来てあげる。裏で待ってて」と言われた。デパート裏の社員通用口のようなところで店員から茶色い筒を渡された。「ありがとうございます」とおじぎをして自転車で家に帰る。
筒から出てきたのはB全の大きなポスターだった。画鋲を刺したくないのでコーナーに別の紙を挟んで壁に貼った。近くで見ると素晴らしい筆致がよくわかる。もしあのときに店員がポスターをくれなかったら、彼のイラスト熱はいつか冷めていたかもしれない。
ギャラリーではAさんと少し話をして、デパートのポスターの絵が好きだったと伝えたのだが、「そんなの描いたっけなあ」と拍子抜けする答えが返ってきた。たくさん仕事をしている人はそういうものなのかもしれない。Aさんは彼に名前を聞いた。
多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。