フロア29:博士の普通の愛情
柴田社長と初めて言葉を交わしたのは入社して一週間くらい経ったころ、エレベーターの中だった。ひとりで乗っていたエレベーターに社長と若い社員が小走りで向かってくるのが見えたので、ドアを手で開けておいた。
「ありがとう。29階をお願いします」
若い社員が言い、私は『29』と書かれたボタンを押す。そこは社長と重役がいるフロアだということは知っていた。社長は40代後半で一度だけ会議室で会ったことがある。いや、あれは会ったとは言わないだろう。6人の新入社員が一列に並んで簡単な自己紹介をし、社長が「皆さん、頑張ってください」と言った、たった数分だけのことだ。
「新しく入った、新島さん、でしたね。会社には慣れてきましたか」
社長のその言葉に私の心臓は止まるかと思った。全国に2000人もの社員がいて、本社だけでも600人。会議室で会ったのが一週間前だとしても、どうして私の名前なんかをおぼえているのか。それが経営者の能力というものなのだろうか。12階で降りて自分のデスクに向かう。隣の席の牛島課長に聞いてみた。
「今、エレベーターの中で社長に会ったんですが、私の名前をおぼえていたんです。すごい記憶力ですよね」
「ユウちゃん、そんなわけないでしょ。あの人が一日に会う人数を聞いたら
不可能だってわかるわよ」
牛島りえさんは、この部署に来る数年前は29階にいたはずだ。
「でも私に『新島さんですよね』って言ったんです」
向かい側の席で、二年先輩の武元が笑って言う。
「課長、新人には教えてあげたほうがいいんじゃないですか」
「でもね、これって本人次第だから」
私はふたりが何を言っているのかわからなかった。
数日後。デスクに「29階に来るように」という内線電話がかかってきた。午後6時、仕事は終わっていて帰り支度をしているところだった。
「29階に行ってきます」
牛島課長と武元はあの時と同じように顔を見合わせる。
多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。