見出し画像

抽象性を高めること:写真の部屋

ときどき「これが私の作品です」と見せられるものに対して思うのは、写真の着地点が決まっていないことです。具体と抽象という概念がありますが、写真は具体を写すことなので、写されているものはほとんどの場合、具体的な像です。しかしそれだけだと見せられたほうは「これ、あなたのペットの写真ですよね。可愛いですね」「ダンス大会ですね」で終わってしまいます。

昔、ある著名人の自宅に伺って撮影をしたことがあります。簡単な撮影が終わってお茶をいただいていたところ、その人が家族のアルバムを持って来て見せてくれました。誇張ではなく20冊以上あったと思います。「これは夏祭りの写真です」「孫の入学式です」などと、すべての写真について説明をしてくれたのですが、数時間経って「私は何を見せられているのだろう」と頭がクラクラしてきました。その人の孫のピアノの発表会、和服を着た奥さん、飼っているペット、それぞれが家族にとって大切な思い出であることは間違いありませんが、初対面の私には情報量が多すぎます。

そこで気づいたのは、「具体的で個人的なものが写っていたとしても、無関係な人に何か訴えかける写真もあるよな」ということでした。過去の優秀な写真家が自分の親しい友人や家族を撮った作品に感動した経験もありますが、その数十冊のアルバムを眺めながら、これは違う、と理解しました。

では、その違いとは何なのでしょう。自分が他人に見せる写真は、どうすれば家族でない他人にも何かを感じてもらえるのでしょうか。

ここから先は

572字

写真の部屋

¥500 / 月

人類全員が写真を撮るような時代。「写真を撮ること」「見ること」についての話をします。

多分、俺の方がお金は持っていると思うんだけど、どうしてもと言うならありがたくいただきます。