昭和セピア色のこんなハナシ ep05. 「赤胴鈴之助と吉永小百合」の巻
高嶺の花のテレビジョン
たかしクンのお父さんは新しモノが好きな人だったようだ。仕事は何をしていたのかは分からないけれど、庶民にはまだまだ高嶺の花だったテレビジョンを早々と買い入れた。
そんなわけで、テレビジョン視たさに、たかしクンの家には近所の子供たちが入り浸っていた。とりわけタケさん家が最も近く、20秒もかからぬほどで彼の家に上がり込める距離だったこともあってか、たかしクンにとってはタケさんが一番の親友になった。
ちなみに小学校入学前、たかしクン一家がタケさん家の近所に引っ越してきて、彼のお父さんにしてみれば、おとなしく病的虚弱な息子たかしクンに友達ができるだろうか、小学校で皆について行けるだろうか、それが一番の心配だったようだ。
そんな心配をよそに、たかしクンとタケさんはすぐにともだちになれた。どちらかと言えば、当時のタケさんもおとなしくて引っ込み思案タイプ、たかしクンとは似たような性格だったのかも知れない。
人気女優への躍進
さて、「赤胴鈴之助」である。
「少年画報」という小学生向けの雑誌に1954年8月号から掲載された漫画だ。職人気質の父が漫画雑誌など買ってくれるわけもなく、当初タケさんは知らなかったはず。もしかしたら、たかしクンの家で読んだのかも知れないが記憶には残っていない。
その後ラジオドラマ(1957年1月から2年間、ラジオ東京・現TBS)にもなったのだが、ラジオは職人の父が独占していたためタケさんはほとんど聴く機会が無い。
このラジオドラマが好評だったことで、1957年10月から1959年3月まで、テレビ(現TBS)でドラマ化された。すでにラジオ出演していた吉永小百合さんが、そのままテレビ(この頃、テレビでは生放送が主流)にも出演されるようになった。
タケさんやたかしクン、言うに及ばず近所の子供たちは、このテレビドラマの「赤胴鈴之助」に夢中になっていた。
それもそのはず、まだ幼さが残るぼくたちは、吉永小百合さんが少し年上ではあるけれど、みんなの憧れだったのだ。そしてテレビジョンも、少しずつではあるが庶民にも普及し始めるようになってきた。
やがて吉永小百合さんは高校生になり、日活と言う映画会社に入社、看板女優となる。
当時、アクション映画がマンネリ化していた日活に、青春や純愛をテーマにした代表的作品、「キューポラのある街」、「愛と死をみつめて」等、新たな路線で日活映画ファンの獲得に貢献し、日活の一時代を築いてきた。
1960年代を代表する人気女優へと躍進していく彼女こそ、あの時の「赤胴鈴之助」に出てた女の子だったんだと。タケさんもたかしクンも中学生、やがて高校生となって、知ることとなる。
ときおり、テレビのCMで拝見する70代後半にもなろう吉永小百合さん、変わらぬ美しさ・・。
そんな時代と共に、過ぎ去ってなお、コアな小百合ファンは「赤胴鈴之助」というドラマの題名は決して忘れないだろう。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。
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