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2年とちょっと~ジブリ私記(1)

 これからしばらく私が体験したジブリのことを書き継いでみるとしよう。
 と言っても私がいち新入社員としてジブリに入社したのは『もののけ姫』の製作時だから、もう30年近くも昔のことをふりかえることになる。
 しかも私がジブリに在籍していたのはわずか2年とちょっとにすぎない。何十年も係わり、籍をおいた古参のスタッフからすれば、貴様になにを語りえようかと言われてもしかたない。それはそうだと気も引ける気持ちもあるが、世に出回る本をあれこれ読んでいると、2年前後の実体験でぬけぬけと専門家となのっている人はけっこう多い。
 そしてもうひとつ、私がジブリでどんな風に遇されていたかとなると、似たようなスタッフはそうそういない。ちょっと特殊な立場で私はジブリを経験し、ジブリを見ていた。それを説明していくと長くなる。いっときに話題をあれこれ盛りこむと話がごちゃごちゃしてしまうので、その説明はまた追い追いしていくことにしよう。

 それにしても2年とちょっとでジブリを辞めたのは、わが事ながら短かった。ただこの体験が幸運だったのは、たったの2年間で私は宮崎駿と高畑勲というジブリの二大巨頭との仕事にそれぞれ携われたことだ。
 つまり当時制作が開始されたばかりの『もののけ姫』に参加し、その後に続く作品『ホーホケキョとなりの山田くん』の企画準備にかかわったのだ。
 新入社員として突然制作の真っ只中にほうりこまれた『もののけ姫』は、宮崎作品に携わったというより、アニメそのものの作られ方をこの作品をつうじて知ったという面が強かった。アニメの素人として参加したわけなのだが、そうなった理由も後々説明していこう。
 『もののけ姫』でアニメそのものを知った後に『となりの山田くん』にかかわったのはとても異質な体験だった。高畑勲というひとの、稀代のスロースターターで、実に粘っこい企画の作りこみ方は、宮崎駿とはいろいろな面で対照的でそれだけに実に新鮮な体験だった。
 しかしそれを『作家性』と言っていいかとなると、それは正直、ご勘弁ねがいたい。宮崎と高畑の、制作時の姿勢の違いを『作家性の違い』と論ずるなり、「片づける」なりするのは、ある意味たやすい。それは一方で『神聖化』という、「評価の思考停止」にもたやすくつながるのだし、私がこれから書いていきたい作品制作の渦中のさまざまに具体的な雑事のかずかず(そう、それは雑事である)を、ぼやったとした『抽象化』の領域へと放り込みたくないのだ。
 この書き物がいろんなジブリの書き物のなかかでも特殊になるとしたら、高畑や宮崎を神聖化しない点がひとつあり、そしてもうひとつにつまらないくらい雑事の具体性にこだわることだろう。
 そう言いつつ、陳腐な表現になるだろうなと思いつつそういう言葉をつかえば、ジブリの2年間はわたしにとって『青春』の一部だった。甘酸っぱいどころか、業苦でさえあった青春。その青春とは結局私の生涯を貫くように縛りあげるたぐいのものであって、決して誉むべきものではない。
 まだ世間のこともよく知らない、大学を卒業したばかりの青二才が、将来の演出家候補と目されて、ジブリで働く。その期待と嫉視をまともに引き受けるのはけっこう荷が重かったし、さまざまな嫌がらせもうけたが、案外歓迎してくれるひともいた。

 あのころ、本当に毎日毎日、陽が落ちるのが早かった。
 頼まれた雑事にあれこれと手をこまねいているあいだに、スタジオの中をするどく西日が射しこんでくる。
「ああ、今日も一日が終わっていく」
 そんなことをスタジオのA地点からB地点へ移動する任意の一点で、厄介物の作画袋を手に抱えながら移動している渦中で、その西日は私のさえない姿を照らし、私は思わずにらみかえすように西日に見やって立ち尽くした。壁際のポジションに机を据えていたアニメーターたちはこぞって立ち上がり、ブラインドカーテンを紐を繰って下ろしてしまうと、急に室内は親密なあたたかさを錯覚させる蛍光灯の光に包まれるのだ。
「ああ、今日も一日が終わっていく」
 いや、それは嘘だ。西日が射しこみブラインドがおろされたとき、スタジオはまだ一日の半分しか終わっていない。ひとりでもアニメーターが居残っているかぎり待機していなければならないのが演出助手、というのが私に与えられた役目だった。夜中の12時をまわっても、私は落ち着かない気持ちで無為のままスタジオに残っていなければならない不条理(昨今の言葉でいう、ブル・シットな)『労働』をどう告発すべきなのか考えあぐねていた。あれからもう30年が経とうとしている。


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