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宮崎駿と同じ夢を見る~ジブリ私記16

 この回想録はぼくがジブリで働いてころのことを書いていく、つづきものの記事のひとつです。
 いままで書いてきたものはこちら【   】

 はじめて読むひとに向けてあらすじを書いてみると、ぼく・石曽根正勝は、宮崎駿に誘われて1996年の春にスタジオジブリに入社した。面接や入社試験を受けたのではなく、宮崎駿本人から個人的に誘われてジブリに顔パスで入社したのだ。
 なぜそういうことが起きたのかと興味を持った方は、その一年前にジブリで開催されたアニメ演出塾『東小金井村塾(第一期)』でのぼくの活躍を宮崎さんが注目し、ジブリの次世代の候補を育成するつもりでぼくを「一本釣り」したのだった。

 ぼくはその『東小金井村塾』では、自分を「アンチ・ジブリ」として振る舞っていた。ジブリそのものやジブリ的な価値観は一切顧慮しない態度をもって、塾長(高畑勲)やほかの塾生に立ち振る舞った。ぼくをジブリに雇うつもりでいたとき、アンチなことまで宮崎さんは深く理解していたのだろうか。ぼくの大胆な物言い、振る舞いがジブリを否定しているからこそ出来たのだ、とまで。
 ぼくはぼくで、塾の終わりと並行して大学の修了がせまっていて、ぼくは大学院の進学を考えていた。しかし宮崎さんにジブリへの勧誘がされて、ただ好奇心として面白いと思って、多少のためらいはあったものの、ジブリで働くことにしたのだった。

 ぼくはだから、なるべくジブリの雰囲気に流されないようにしようと思いながら働いていた。あれから四半世紀以上の時間を経て思うのは、入社へ勧誘した宮崎さんはそういった「異端児」的な振る舞いをぼくに求めているわけではなかったことだ。なんとなくジブリの雰囲気に染まって、ちょっと気の利いたことができる才能がほしかったのだろうなと今なら自然に思う。

 でもぼくはその当時、徹底した「反逆児」を求められてジブリに入社したと思っていたから、なるべくそのように振る舞おうとして、その結果、いくつもの苦い事件がぼくを貫いた。
 しかし「求められた反逆」とは、なんと不思議な行為だろう。「反逆」とはそもそも「求められていない」からこそ成り立つ現象・行為ではないか。「求められた」時点でそれは「反逆」ではない。そうなったらそれは「反逆のふり」でしかない。
 そうは言っても、宮崎駿が何かを漠然とではあれ求めていたのは確かだったし、ぼくはぼくで何かを漠然と「反逆かなあ……?」と思いながら振る舞ったのは確かで、双方で何かを追い求めるベクトルがあるのは確かだったが、その双方向においては「ずれがあった」ことだけは確かだろう。『アンチ・ジブリ』である【  】ことはこの連載に少し書いた。実際にそんな風に振る舞って、未来の企画『毛虫のボロ』(現在三鷹の美術館で上映中)のことを根本から否定するようなことを言ったこともすでに書いた【  】

 でも一度だけ、宮崎さんと心が通うというのか、シンクロしたような気になったことが起きた。
 それはどういうきっかけでそんな話が起こったのか、前後の脈絡は覚えていない。昼間だったか、夜が更けてからだったかも覚えていない。ただそのとき、ぼくと宮崎さんは、社屋を占める広い作画ブースの中に、もうひとつの狭い机の輪として囲われたメインスタッフブースの中にふたりはいた。メインスタッフブースはメインスタッフの机が囲う形に矩形になっていて、矩形の中心へそれぞれのスタッフは背を向けるようにして机を置いて仕事をしていて、そのメインスタッフブースの輪の中心にはひとつの・ありきたりな会議用机が横に伸びるように置かれていて、ぼくと宮崎さんはその横机の両側から、顔をつきあわせるようにして話をしていた。いつもそうであったように、宮崎さんが一方的にしゃべりつのり、その両腕を机の上に突っ張って、上半身の体重をかけてしゃべっていた。ぼくはその机をはさんで立ったまま聞いていて、仕上げの研修以来トレードマークのように着ていた紺地のクラフト製エプロンを首からぶらさげて、ふむふむと、生意気にならなそうな態度で宮崎さんの話を聞いていた。

 それは宮崎さんが愛した作家のひとり、サン=テグジュペリの小説の一箇所の説明だった。『人間の土地』だったか『夜間飛行』だったか、それは知らない。ひとつ言えることは、それらふたつの作品はいまも新潮文庫から増刷されているが、ぼくがジブリで働いている当時、あのふたつの文庫本は宮崎駿による装画にはなっていなかった。だから、あの頃宮崎ファンからすれば新潮文庫のサン=テグジュペリは宮崎愛読の書だというのは周知の事実だったが、新潮文庫はそれを把握していたのかいなかったのか、いずれにせよあの二冊の文庫本が宮崎駿装画になったときにぼくはジブリを辞めて数年がたっていて、本屋でその新しくなった装丁の文庫本を見ながら、「サン=テグジュペリもジブリに捕まったか……」と複雑な気持ちになったのは確かだった。
 ぼくと宮崎さんがサン=テグジュペリの本について話していたとき、だから、あの新潮文庫はまだ宮崎さんの装画になっていなかったし、ぼくは今も昔もその文庫本を読んでいないので、宮崎さんがその書から引いてきたエピソードが『人間の土地』か『夜間飛行』のどちらからのどの部分かも知らないままなのだった。
 しかし宮崎さんが印象深いと言って披露してくれたそのシーンは四半世紀も前のことであっても、いまだに覚えている。
 夜間飛行船の話だ。まだ命がけの闇夜の郵便飛行の話だった。その乗り手は闇夜の雲間にもてあそばれて、自分がいまどこを飛んでいるのかも行方しれずなのだった。大陸と大陸の間を飛んでいることだけが確かであるが、飛んでいる方向も、その高度も皆目見当がつかないのだった。まだ大陸に灯火も少ない時代だったし、飛行船が飛んで行き交う可能性も絶望的に低かった。飛行士は自分が海面からどれだけの高さで飛んでいるのかわからなかったので、いつ海面に直撃するかわからなかったし、いつ陸の崖に直撃するかもわからず、ただ恐怖につかれていた。
 手がかりもなく、あてどなく、いつ死ぬのかわからない恐怖でぼうっとしながらただ飛行していたのだという。ただ絶望しかない夜間飛行だったのだ。
 しかしそのときだった。視線のはるか先に何かが点滅したように感じた。気のせいかもしれなかった。いや、さぐるように見つめると、なにか光がともっているような気がする。手探るように、ただそのまま飛行を続けていると、それは確かに灯火なのだと確信する。それは気の迷いではない。幻覚ではない。確かにそれは家の灯りなのだった。助かったのだ。その灯りを手がかりに飛行を進めていけば俺は助かるのだった。遠くの、かすかな、しかし確かなひとつの灯りが、俺を助けてくれたのだ。
 そんなことを宮崎さんは説明してくれた。

「そんなシーンを、俺は、映画で(アニメで)描いてみせたいんだな。」

 そう宮崎さんが言うとき、暗闇のなかを飛びながらかすかな確かさで灯っている遠くの明かりが、宮崎さんとぼくのふたつの脳裏に同時に描き出されていた。それは映像的な確度において、ふたりの脳裏に確かなものとして描かれつつ、しかし同時に、その暗闇と明かりとが、飛行機がまとう蠕動をともないつつ、「どうアニメとして実現しうるか」という問いが、ふたつの脳髄を貫いていた、とあれから四半世紀のときを置いても思い出せる。あのとき宮崎さんがサン=テグジュペリのイマージュを借りて言及した映像イメージは、『ハウルの動く城』で秘密の庭の夜空を駆け回った星々だったり、あるいは『君たちはどう生きるか』の冒頭の空襲の場面で襲いかかる闇のなかの火の粉かずかずであったりと、ふたつの実現したイメージは正反対な趣を帯びながらも、「アニメにおける闇と光の表現」をともどもに挑戦している。これらのシーンを実現するとき、宮崎さんの頭の隅にサン=テグジュペリが喚起した闇と灯りのイメージがかすめていたかもしれない。
 物語・筋・ストーリーを追うのもいいし、どのような作画技術や撮影技法がそこで展開されたかをテクニックとして解説してもらってもいい。
 しかし宮崎駿という「アニメ作家」の営為をひとつ(あるいは、いくつも)とったとしても、筋でも技法でもなく、作家がアニメを「触媒にして」なにを「表現」しているかの「その探求」はまだまだ研究なり・評論なりにおいて、端緒についていないというのが現状だ。
 たとえば宮崎駿という「アニメ的存在」は、それまでのアニメ表現を汲み取りつつどう「新たな展開」をなしとげたのか。そして宮崎駿という「アニメ的存在の圧政」をどう乗り越えてまでして、新たな世代たちが(たとえば庵野が、湯浅が、新海が)どう「新たなる表現」を提示していたのか。それは筋立ての傾向性と、世相との切り結び方とを横目にみつつ、別に展開すべき営為だろう。
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 サン=テグジュペリを手がかりに、宮崎駿は「アニメにおける光と闇」の表現をぼくに問いかけてきた、という話をここまでしてきた。
 なにも宮崎は、レイアウトや絵コンテという「絵達者」な手段でだけ、アニメの表現を伝えていたわけではない。「語り部」として、言語を通じてでも、宮崎は独創的な固有のイメージを話し相手に伝えていた、ということもここで言いたい。
 ドキュメンタリーだったり、特集番組や、対談という場で、「語り部としての宮崎」は、どうにも「説教者」としての色彩を強く帯びる形で語らされてきた憾みがある。それは相手をし、言葉を引き出そうとする者の「偏り」も多いにあずかっているだろう。もっと「視覚的な言語の扱い手」としゃべらせてみたらどうなるのだろう。まあ、宮崎は相手をかまわず、視覚的に構想をぶちあげる才能には恵まれている。
 ここは「聞き書き」の出番だろう。視覚性認知に高い「聞き巧者」がいれば、宮崎氏から多くのイメージを引き出せるだろう。宮崎氏の世を憂うる言葉など、何十年間ほどで世相を異として、時代遅れなものになるか、預言者として固陋を極める者だけが支持するだけだろう。
 ぼくがその任に耐えるといいたいのではない。しかし、齢八十を過ぎて、まだ実現し残しているイマージュを宮崎氏の口から聞いてはみたいな、とは正直思うし、それを聞きたいひとは沢山いるだろう。それを引き出す手段として、特異なイベントに立ち上げて延々と話を聞く会が開かれたらと夢想する。手練れのプロデューサーが近くにいるのだから、こういう奇特なイベントを開催することも検討して欲しいものだ。

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