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ご指名を受けて~ジブリ私記13

★すでに実力をつけたスタッフが口約束だけでスタジオを渡り歩き、ジブリに出入りするのは珍しくないだろう。
 そういう意味では、れっきとした新入社員(正規社員)でありなら、試験も面接も一切受けず、いわばフリーパスの状態でジブリの採用の門をくぐった者は珍しいかもしれない。
 ぼくは村塾が終わった年末に宮崎さんから電話をもらい(留守電だった「あ~、宮崎です。電話ください」とだけあった)、ジブリに行ってみると宮崎さんから勧誘されるだけで、それはつまる「面接」ではなかった。ぼくは一度話を聞くだけ聞いて保留にして家に帰り、ひとまず当初の目標だった大学院進学試験を済ませ、その合否が決まってからどちらを進むか決めたいと電話で連絡した。宮崎さんがその電話を受けたわけではないが、折返し了解したと連絡が来た。
 3つほど大学院を受験して2つ受かった。先日ジブリのことを「地味だからよい」と書いたが、大学院はもっと地味だが、輝いていた。ひとつの院は面接の待機場所に共同研究室があてられ、試験中であることを忘れるほど受験仲間で盛り上がったので、進学したら楽しいことになりそうだという期待があった。もうひとつの院では文学翻訳で名高い先生に師事できる。そちらも奮起させられるものがあった。
 地味な職場だったとあとでわかるが、何しろ宮崎駿直接ご指名である。一度は距離をとったジブリという存在ではあったが、直接指名に舞い上がった。映画サークルで一番親しい仲間に相談のつもりでひそかに告白すると、沈着冷静なその友人が自分のことのようにみるみる舞い上がってしまって、ああこいつでも舞い上がるほどの案件なのだなあと驚かされつつ、この件にかんしては相談相手には向かないなと思った。当時、とにかく相談できるひとが周りにいなかった。
 もう3月になっていた。院であれジブリであれ返事をしないといけなかった。ジブリ=7:院=3ぐらいの引力の差はあった。魅力としての差はジブリの方が大きかったが、いいかげんな道を進もうとしているという後ろめたさはあった。村塾の仲間を裏切っているという負い目もあった。
 しかし以前も書いたとおり、院はまた来年再来年に受けられるが、ジブリは一度だけしかないチャンスだった。
 試してみよう。軽薄な選択といえばそうだろう。
 そして確かに3年後、ジブリをやめてぼくは大学院に進学するが、3年前のような文学研究に専念したいという動機ではなかった。2年とちょっとでぼくを貫いた「(ジブリという)労働」をしっかり考えたくてぼくは学究の道を進むということになった。しかし「ジブリの労働」はテーマとして相当に手ごわかった。いまだそれを説明せよと言われても難しい。むしろ派生的に生まれた「ジブリの視え方」の方が20年近い歳月をかけて先に実現した。それらはこのノート(note)に散らばめられてある。
 そういうわけでぼくは3月のある日、一本の電話をジブリにいれた。「お誘いの件、了解しました」と。しばらくしてから連絡があって「それでは4月●日にスタジオにお越しください。詳しいことは書類を送付しますので……」とつづいた。
 あらためて書きつけてみると、大したものだと思う。ジブリの就職にあたって、主導権はぼくの方にあったのだ。ジブリはその返事にしたがって、ただ動くだけだった。すでに名の知れたクリエイターならともかく、ただの無名の青二才が相手の話なのだ。まあ、使えない才能だったら放り出してしまえばそれでいい物件にすぎないが、それにしたって太っ腹なものだなといまでも思う。
 こういう豪気なところがジブリにはある。
「なんでジブリと誰々が、こうくっつくの?」という登用が、クリエイターであれ、アーティストであれ、地味なスタッフであれ、あれこれ耳にしてきた。その一件としてぼくもあった。それは確かにささやかながら「登用劇」だったのだ。

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