TVアニメ「アイドルマスターシンデレラガールズ U149」第4話 感想と解題 「本当のあなたを決めることなど誰にも出来ない」あるいは仏教用語としての「分別」
TVアニメ「アイドルマスターシンデレラガールズU149」第4話の感想などです。
前回といい、今回といい、第3芸能課のアイドルたちのポテンシャルの高さには驚かされます。今回は櫻井桃華のご当番回でしたね。
色々な思惑が働いて、桃華はバンジージャンプに挑みます。もし、ディレクターの要求通りに「子どもらしく」振る舞うのであれば、「大人の言うことなんか聞かない」と、全ての演出を覆すようなことをしてもよいのかもしれません。しかし、彼女はそうしません。彼女には分別(ふんべつ)がある、ということなのでしょう。
ところが、ここが私には非常に心に残った場面の1つなのですが、バンジージャンプの行われている橋のそばにあるとされた寺で、桃華は僧侶の指導の下、座禅を組んでいます。
そういえば、ここでちらっと見せられていた僧侶の足の運びの作画が丁寧ですばらしかったですね。
このときの僧侶の言葉は非常に示唆的です。
彼女は分別のある子どもです。しかし、僧侶はここで「分別から離れ」ることを桃華に勧めます。ここで用いられている「分別」とは、普段使われる意味ではなく、仏教用語としての分別でありましょう。
あまりここで議論を重ねると果てしなくなるので大概にしておきますが、ここで重要なのは②の意味ですね。「分け隔て無く全てをあらゆる方向から見る」「自分らしさに囚われ過ぎることがないように」という意味になるでしょうか。
桃華はディレクターからは「子どもらしく」することを求められ、仲間(プロデューサー、ありす)からは「自分らしくすればいい」と言われ、葛藤します。
自分は子どもなのに、子どもらしさを要求される。つまり、普段の自分は子どもらしくないのだろうか。
自分らしくするということは、子どもである自分ではないのか。
アイドルとは、演出家の要求に応え演じるものではなかったか。ファンが求める姿になるべきではないのか。
私らしいとは何か。どんな自分を作ればいいのか。
結局答えは出ず、そうこうするうちに何故かプロデューサーが空を舞います。
そして、ありすの「大人とは思えませんね」という言葉に対して、彼は「大人でも怖いものは怖い」と打ち明けます。彼は「怖くない」と嘘をついて勇気づけるのではなく、「とんでみたら怖かった」ことを素直に伝えてしまうのです。「大人として」ではなく「自分として」怖さを認めます。
それは、アイドルでもなく、子どもでもなく、さらには今ここにいる桃華ですらない「バンジージャンプを飛んだ自分」を感じさせるものだったのかもしれません。
飛ぶ前と飛んだ後では違う。それでも自分は自分。それをどう受けとめるかは見る者次第、桃華を見逃さず見届けてくださいね……と、もしかしたらそのような割り切りが出来たのかもしれません。
その姿は、大人でもたどり着くことが難しい境地です。だから彼女がアイドルなのです。