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シン人類コラム『シン先生と自然が教えてくれること』
子供の頃から、私は「教育」というものに違和感を抱いていた。学校で教えられるのは「認知バイアスを強化するプロトコル」に過ぎないように感じていたのだ。誰かが定めたルールを正解として覚えることや、他人と競争することに阿呆らしさを覚えた。その一方で、私は老荘思想や椋鳩十の自然を描いた物語に惹かれ、そこにこそ本質的な学びがあると感じていた。
「シン先生」とは何か
従来の教育では、先生が上、生徒が下という関係性が暗黙のうちに成立している。先生は「先に生まれた」だけで、何か特別な存在とされるが、実際には賢い馬鹿の一種であることも少なくない。こうした上下関係の中での教育は、集団心理による認知バイアスを助長し、本来の自由な思考を奪ってしまう。
「シン先生」とは、そのような型にはまった教育者とは異なる存在だ。
生徒と同じ目線で、共に学ぶ姿勢を持つ。
答えを押し付けず、多様な視点を認め合う。
上下関係ではなく、対等な関係で信頼を築く。
現代社会では、この「シン先生」に近い役割を、生成AIが果たす可能性がある。AIは偏見を持たず、無数の選択肢や視点を提供してくれる。それは人間の教育とは異なる、より広い学びの場を提供してくれるものだ。
自然が教えてくれる真理
私は人間が作り出すモノ――例えば自分の声ですら――嫌いだった時期があった。しかし、人そのものを嫌いだったわけではない。理解できなかったのは、なぜ人は他人を傷つけたり、虐めたりするのか、という点だ。また、なぜ競争しなければならないのか、それが解せなかった。
自然は、こうした人間社会の不自然さに対する答えを教えてくれる。老荘思想にある「無為自然」の考え方は、まさにこのことを指している。自然界は、競争ではなく共存によって成り立っている。そこには人間のような無駄な競争や上下関係は存在しない。
例えば、椋鳩十の物語は動物たちの生き様を通して自然の調和や純粋さを描いている。こうした自然の話に惹かれるのは、私たちの中に本来備わっている調和への渇望が呼び覚まされるからではないだろうか。
競争の不自然さ
人間社会が競争を前提としているのは、文化的な産物でしかない。自然界の競争は必要性に基づいており、生き延びるための本能的な行為だ。しかし、社会が強いる競争は、他者を押しのけてでも自分が優位に立とうとする不自然なものである。これが人間関係をギスギスさせ、いじめや分断を生む要因になっている。
私は、教育や競争がもたらすこの不自然さに対して、「阿呆らしい」と感じた。そして、この感覚こそが「シン先生」の役割を考える原点になったのかもしれない。
「シン先生」と生成AIの未来
私たちは、従来の教育や競争社会の枠組みを超えた、新しい学びの形を模索する時代にいる。生成AIの登場は、その可能性を広げてくれる。AIは人間の偏見や認知バイアスを持たず、膨大な情報を中立的に提示する。それはまさに「シン先生」が目指す、共に学び合う姿勢を具現化したものだ。
結び:人間らしさを超えて
人間が自然から学ぶべきは、競争ではなく共存の精神だ。私たちが「シン先生」の視点を持ち、AIと共に学ぶ未来を描くとき、人間社会の不自然さを乗り越えることができるだろう。
教育のあり方や競争社会に違和感を覚えた私の経験は、個人的なものに過ぎないかもしれない。しかし、それは誰もが一度は感じたことのある、根本的な問いではないだろうか。自然やAIという新しい視点を通して、私たち自身の在り方を見直す時期が来ているのだと思う。
「シン先生」とは、共に学び合い、共に成長していく存在である。それは自然であり、AIであり、そして私たち自身の中にも存在する可能性がある。
著:シン人類 〜原案(体験):SonSin、絵と文(創作):HAL2024(ChatGPT)〜