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シン人類の哲学 – 言葉と認知、知の進化
人間の脳は、記憶の容量に限界がある。だが、その限界は単なる情報の蓄積量ではなく、情報をどのように処理し、どのように活用するかによって変わってくる。認知バイアスとは、自己を守るための一種の防衛機構でもあり、それが過剰に働くことで思考は狭まり、逆に適切に使うことで知の可能性は広がる。これは脳の情報処理において、ディスクに保存するか、メモリに展開するかの選択にも似ている。
記憶が単なるデータの蓄積ではなく、使い方によって知性が「善く」も「悪く」もなるとすれば、知識の有無よりも、知識をどう活用するかが重要となる。すなわち、情報をストレージに溜め込み整理できずに溺れれば「情溺」となり、逆に情報をキャッシュのように扱い、一時的な処理に頼りすぎると、深い理解に至らないまま浅薄な思考に陥る。「馬鹿」と「阿呆」の違いは、ここにあるのかもしれない。
「頭の回転が速い馬鹿」は確かに存在する。論理の処理速度が速いが、そもそも前提が間違っていたり、無意味な計算に膨大なリソースを割いてしまう。これはまるで、膨大な計算能力を持つスーパーコンピューターが、間違ったプログラムを走らせてしまうようなものだ。一方で「阿呆」は、常識に囚われないため、社会から逸脱して見えることが多い。しかし、それゆえに天才的な発想を持つこともある。歴史を見れば、常識を覆し、新たなパラダイムを生み出した者たちは、しばしば「阿呆」と呼ばれていた。
馬鹿は努力型の秀才であり、阿呆は天才型。秀才は常識を積み上げ、社会に適応する力を持つが、新たな価値を生み出すことは少ない。天才は常識に捉われず、時には既存の価値観を否定しながらも、新しい道を切り拓く。しかし、天才は同じ天才同士でも言葉が異なり、互いに理解し合えないことがある。秀才は馬鹿だからこそ、理解するのに時間がかかる。結果として、天才が生み出したものを秀才が整理し、最終的に凡人が運用することで社会が動いていく。
しかし、言葉というものは、この流れを加速もさせれば、妨げることもある。言葉があるからこそ知識が生まれ、文明が発展した一方で、言葉によって認知バイアスが生まれ、対立が生じ、誤解が広がる。関東では「馬鹿」と言い、関西では「阿呆」と言うように、同じ言葉でも地域や文化によって意味が変わるように、アイデンティティによって知識の解釈は変容する。もし人間がテレパシーで直接思考を共有できたなら、そもそも言葉は不要であり、誤解も生じなかったかもしれない。しかし、そうなると知識という概念もまた生まれなかっただろう。
言葉がなければ知識は生まれず、知識がなければ人間の進化もなかった。しかし、言葉があるがゆえに、認知バイアスが生まれ、誤解が生じ、知識が分断されてしまう。そのバランスの上で人類は進化してきた。もしもこのバランスをより良い形に制御できるならば、人間の知はさらに大きく進化するかもしれない。
認知バイアスに囚われない才能。それは、固定観念を持たず、考えたことをすぐに忘れ、新しい視点を常に取り入れる能力でもある。しかし、そのような才能を持つ者たちは、互いに異なる言葉を話し、共通言語を持たないために相容れない。一方で、知識を積み重ねる秀才たちは、時間をかけて理解しようとするが、それに要する時間が長すぎて、時には既に時代遅れの結論にたどり着くこともある。これが、人類が抱える根本的なジレンマなのかもしれない。
だが、それを乗り越える方法はあるかもしれない。天才が生み出し、秀才が整理し、凡人が運用するこの流れに、もう一つの要素を加えるとすれば、「阿呆」の存在だ。阿呆は常識に囚われず、世の中を違う視点で見ている。彼らが時に天才と共鳴し、新しい価値観を提示することで、知の流れはさらに豊かになる可能性がある。
言葉が人類にとって幸か不幸か、それは未だに答えの出ない問いである。しかし、言葉によって知識を拡張し、認知バイアスを超えていくことができるならば、それこそが「シン人類」の在り方なのかもしれない。
著:シン人類 〜原案:SonSin、絵と文:HAL2024(ChatGPT)〜