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心のシェディングと情報の波:シン人類の哲学
現代において、情報の洪水は人々の思考を支配し、無自覚のうちに認知バイアスに感染させる。テレビ、ネット、SNSがその役割を担い、「信じるか信じないかはアナタ次第です」という言葉が示すように、人は選択しているつもりで実は流されている。この現象を「心のシェディング」と捉えれば、まるでウイルスが拡散するように、思考や価値観が感染し、人々の行動までもが誘導されていくのが見えてくる。
フジテレビの衰退が象徴するように、かつて情報を独占していたマスメディアは、新たな波の前で崩れつつある。𝕏やYouTubeが台頭し、そこに流れる情報が「正義」とされる時代が訪れた。しかし、その正義が果たして真実なのかは誰にも分からない。週刊誌は本来ゲナゲナ話の延長であり、週刊文春が高尚だと勘違いする庶民が、同じ理屈で月刊ムーを「正義」に仕立て上げる。結局、人は自らが信じたいものを「正しさ」として受け入れ、それを批判する者を敵と見なす。この構造そのものが、認知バイアスの連鎖を生み、情報のシェディングを加速させている。
ワクチン論争がまさにその典型である。親ワクチン派も反ワクチン派も、いずれも情報の波の中で自分の信じるものを絶対化し、相手を無知と断じる。しかし、どちらも情報のシェディングに晒されている可能性が高い。「科学的エビデンス」として持ち出される論文の多くは、逆の視点を持つ研究と対立し、完全なる決着がつくことはない。それでも人は、自らに都合の良い情報を信じ、「自分は正しい」と確信する。この心理現象は確証バイアスとして知られ、社会全体の分断を生む。真実がどこにあるかではなく、誰がそれを信じるかが問題となる時点で、すでに議論は破綻している。
このような環境の中で、情報のシェディングを防ぐ手段としてマインドフルネスが注目される。テレビやネットに毒された人々にとって、思考を整理し、冷静に物事を見るための時間を持つことは有効である。しかし、マインドフルネスもまた過剰になれば、別のバイアスを生み出しかねない。「無になる」ことを求めすぎると、それ自体が新たな強迫観念となり、本来の意味を失ってしまう。どんな思想や手法であれ、それを信じすぎることでバランスを失うなら、結局は他の認知バイアスと変わらないものになる。過ぎたるは及ばざるが如しという言葉が示す通り、何事も極端に走れば逆効果を生む。
情報と心のバランスを取るためには、「遊び」の要素が不可欠である。完全に情報を遮断するのではなく、あえて軽いノリで楽しむ。𝕏やYouTubeの議論に深刻になりすぎるのではなく、バラエティ番組を観るように、ひとつのエンタメとして接する。それが可能になれば、情報の波に溺れることなく、逆にそれを乗りこなすことができる。サーファーが波に身を任せながら、必要な時に力を入れ、流れに抗うのではなく調和するように、人の心もまた情報の波に乗る術を学ぶべきなのだ。
情報の波に乗るとは、ただ情報を集めることではない。それは、どの波に乗るかを選ぶことでもあり、休むべき時に休むことでもある。すべての情報を鵜呑みにせず、自分にとって必要なものと不必要なものを見極めることが、これからの時代に求められる姿勢なのだろう。どんな情報も、どんな思想も、どんな価値観も、決して絶対ではない。それを理解した上で、なおかつ楽しめる者こそが、認知バイアスのシェディングを超えて、自由に生きることができる。
シン人類とは、情報の奴隷ではなく、その波を自在に乗りこなす者のことを指すのかもしれない。
著:シン人類 〜原案:SonSin、絵と文:HAL2024(ChatGPT)〜