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シン・ウルトラQ『見えないものを見る目』
伝えたい思い
E=MC²という普遍的な真理があるのに、現代社会はまるでランダム関数のように混沌とし、正解を求める不毛な迷宮を彷徨っている。それはまるで、賢い馬鹿と純粋な阿呆が積み上げたアカシックレコードを解析し続けることが目的化してしまったかのように。
本来なら、温故知新として歴史や哲学から学び、未来を拓くべきなのに、日本の教育はその本質を見失い、スパルタ式の詰め込み教育へと傾倒してしまった。古代ギリシャのアテネ式教育のように、自由な対話と創造の「和の心」を思い出すべきではないか。
しかし、日本では親やオカミへの忖度や論破を重視する風潮があり、それが本来のディベートとは異なるものになっている。このままでは、日本人は「自分の意志」を見失い、結果として外国人からも「見えない」存在になってしまう。そして、その見えなさを外国人のせいにする知識バイアスに囚われ、バイブスのない日本人が増えていく。
かつての聖徳太子、福澤諭吉、渋沢栄一のような、広い視野と真の知恵を持った人物の心を理解できない日本人が増えてしまったのかもしれない。だが、これはすべての日本人がそうだというわけではないと信じたい。
地球人として、もう少し「何とか」ならないものか。日本だけでなく、世界全体が。
空想ショートショート『見えないものを見る目』
ある日、シン日本の片隅で暮らす男・ソンシンは、不思議な目を手に入れた。それは、「見えないものが見えるようになる目」 だった。
初めてその目を使ったとき、彼は世界が全く違うものに見えた。道端の石ころが、実は無数の小さなエネルギーの塊であり、人々の言葉の裏には、見えない思考が絡み合っていた。さらに驚いたのは、街を歩く人々の背後に、うごめく「認知バイアスの影」が見えたことだった。
「これは…何だ…?」
影は人々にまとわりつき、まるで意識を操るように囁いていた。
「このニュースは本当だ、信じろ」
「彼の言葉は間違いだ、論破せよ」
「この国は正しい、異なる意見は排除せよ」
ソンシンは戦慄した。世界は**「目に見えるものだけを信じる者たち」** によって支配され、真理は隠されていたのだ。
試しに、目を閉じて街を歩いてみると、驚くべきことが起こった。目に見えるものを信じることをやめた途端、影の囁きが消え、彼の心は自由になった。そして、ふと気づいた。「ああ、これが無知の知か」と。
その日から、ソンシンはこの目を使いながらも、時には目を閉じることを学んだ。そうすることで、人々の心の奥に眠るバイブス、そして和の心を感じ取ることができたのだ。
しかし、それを他人に説明するのは難しかった。
「目に見えないものを信じろって?そんなのオカルトじゃねえか」
そう言う者たちには、彼はただこう答えることにした。
「E=MC²だ、普遍的だ」
この話の理論的な説明と、最初に伝えた思いとの繋がり
このショートショートは、「見えないものを信じない人」と「見えないものの本質を理解する人」の対比を描いた。目に見えるものだけを信じる人は、質量とエネルギーの変換のような概念を受け入れにくい。それと同じように、社会の認知バイアスや情報操作の影響を受けた人は、自分が囚われていることに気づけない。
現代の日本社会では、「論破」や「正解探し」が重要視されるあまり、目の前の現象にばかり囚われ、根本的な真理や哲学を見失いがちだ。しかし、ソクラテスの「無知の知」を理解することで、自分が何を知らないのかを知り、目には見えない真実を探求することができる。
「見えないものが見える目」とは、単に科学的な視点だけでなく、メタ認知力や多様な価値観を受け入れる力の象徴でもある。そして、バイブスのない日本人が増えてしまう理由は、こうした「見えないものを見る力」が弱まっているからかもしれない。
最後にソンシンが「E=MC²だ、普遍的だ」と言い放つのは、「説明しても理解されないなら、もう真理だけを投げつけるしかない」という半ば諦めの境地を表している。これは、𝕏での議論が時に不毛になりがちな現実ともリンクしている。
結局のところ、すべての人がアインシュタインのように深く考えられるわけではないし、ソクラテスの「無知の知」を理解できるわけでもない。だが、せめて「多様性のギャンブル」に溺れつつも、それぞれが楽しめる世界であってほしい。
シン・ウルトラQの世界では、それを描き続けていくことにしよう。
著:シン人類 〜原案:SonSin、絵と文:HAL2024(ChatGPT)〜