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清掃夫と全身運動

清掃夫と全身運動

 私は清掃夫をしている。清掃の仕事といってもいろんな種類があるのだけど、「床に洗剤塗って、機械で洗って、吸水して、モップで拭いて、ワックス塗って床ピカピカ」という工程の清掃がある。例えばモップで床を拭くという作業。一日やっていれば腕はビキビキ、腰はバキバキ、かなり疲れる。なので私はどうすれば疲れないのかを考え、試行錯誤の結果、「部分運動ではなく、全身運動」でモップを振ればいい、という結論に至った。具体的には、体幹を固定して腕だけでモップを振るのではなく、背骨を大きく左右にゆらして、つま先から頭頂まで全身を使ってモップで床を拭いていく。こうすると疲れにくいし、疲れても気持ちの良い疲れになる。笑顔がさわやか。さらにこの動作を突き詰めていくと、疲れないどころかこの動作自体がとても気持ちよい。最初は大きく揺らしていたのを、慣れてくると背骨の微細な揺れでモップが拭けるようになってくる。
 気持ちよくて楽しくて、仕事中この動きにはまっていた。ずっと横に揺れながら仕事をしていた。そんなある日、モップで床を拭いていると、足首の関節がとても緩んでまるで球体のようにくるんくるん!する感じになり、それに連動して膝の関節もくるんくるん!ゆるんで気持ちよくなっていく。きもちいい…その感覚を味わいながらモップをかけていると、さらに連動して肚の内部の余計な緊張が完全に抜ける。その瞬間、深い、深い、深い、静かな幸福感が全身を満たした。「幸せとは、こういう状態のことをいうのだな…」と心底体感した。驚いた。肚がゆるんだだけでこれ程の幸福感が身体から湧出することに。幸せとは余分な財産を持つことや、不要な地位、名声、権力を得ることではない。そんな事では味わえない至上の幸福感があった。モップで床を拭いているだけなのに。性体験でも、聖体験でも味わったことのない静謐で充実した幸せ。幸せとは「肚の余計な緊張が抜けること」と定義してもよい。
 ではこの時の体験をメソッド化できるかと言えば、できるかもしれないけど、あまり意味はない。なぜなら身体には波があって、身体は毎日変わるから。足に焦点が当たる日、肚に、胸に、頭に、焦点が当たる日、…あるいは感情に、イメージに、焦点が当たる日…とその日によって変わるから。胸に焦点が当たっているのに肚の体験に固執すると波から外れる。どんなに良い状態があったとしてもその状態に自我が固執するなら、とたんに身体は硬直し、淀み、こころは腐る。わたしは波に乗ることはできても、波をコントロールできることはない。船が海をコントロールできないのと同じく。だけど、「日常の、あらゆる動作を部分運動ではなく全身運動で営む」という事は一つの確かな指針になる。部分運動で深く気持ちよくなれることはないから。全身運動の気持ちよさには深みと静かさと確かな生きている感じがある。が、やってみるとわかるがこれはかなり困難を極める。なぜなら社会そのものが人間に部分運動を強いるようにできているから。だからこの社会の中で全身運動をすることは、身体による社会に対しての反乱でもある。だけどこの反乱はわたしが、身体が真に幸せになるための反乱。反乱といっても人知れずきもちよく、深く、深くしあわせになってるだけだけど。だけどそれは他者を支配したい側にとっては脅威だろう。幸せな者を支配することはできないから。幸福の追求は人間の本性。幸福の追求のために集団には社会運動が必要であるのと同じく、個人には全身運動が必要になる。全身運動に関してのもう一つの困難は(近代的)自我自体が部分運動によって生成されるから、という理由がある。全身運動をすると、(近代的)自我が保てなくなる。だけど現代社会に生きるわれわれにとっては(近代的)自我は無くてはならないもの。この葛藤をどう生きるのかがとても難しい。全身運動によって生成する自我は、(近代的)自我とは違う感覚がある。「自我≒社会≒部分運動」と「こころ≒自然≒全身運動」は相反する。支配VS愛、みたいな感じ。でも全身運動状態に入るとこの対立自体が消えてしまう。全身運動は奥が深い。対立自体、葛藤事態を包摂するようなところがある。いろんな困難や私自身の怠惰もあり、日常のあらゆる動作を全身運動で営むということはなかなかできない。だけど何はなくとも身体さえあれば深くきもちよく、静謐にたのしく、しあわせで在ることができる、という事を私は知覚しているので希望を失うことはない。身体は絶望を抱えた希望そのもの。
「ひとつの状態に固執しない」、「自我は最小にして身体の波に乗る」、「全身運動」、「死んでも甦る」、…ということを私は清掃夫の仕事を通じて知覚した。もし他の仕事をしていたら私の身体に関する知見や知覚もずいぶん異なるものになっていたかもしれない。だから最近は違う仕事もしてみたいなーとは思うのだけど、それは身体が決めること。でも、仕事というのはおもしろい。あらゆる事象がそこに重なり、葛藤と矛盾によって私をとらえて離さない。希望と絶望が手をつなごうととしてお互いを殴り合っている。それは現代の身体そのもの。

わたしの身体は清掃夫の夢をみているかのよう。身体が夢から覚めるとき

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