「「女」の境界線を引き直す」――どこまでも「女性」に寄り添った視点で

『現代思想 3月臨時増刊号』に掲載された千田有紀「「女」の境界線を引きなおす:「ターフ」をめぐる対立を超えて」を読みました。2月20日にゆな氏がブログに当該論文への批判を掲載し、2月22日には千田氏がnoteにてそれに対する再批判、「「女」の境界線を引き直す意味ー『現代思想』論文の誤読の要約が流通している件について」と題する記事を掲載しました。再びゆな氏がこれに対する応答を更新しています。

千田有紀「「女」の境界線を引きなおす:「ターフ」をめぐる対立を超えて」(『現代思想3月臨時増刊号 総特集フェミニズムの現在』)を読んで - ゆなの視点

「女」の境界線を引き直す意味-『現代思想』論文の誤読の要約が流通している件について|千田有紀

千田氏の応答に対して - ゆなの視点

私は千田氏の論文、ゆな氏による批判、ゆな氏の批判に対する千田氏からの再批判に目を通しました。千田氏によればゆな氏の批判は誤読に満ち、これが「論文の要約」であるとしてネットに流通してしまうと困るほどのものだそうです。

困ったことは、雑誌に書かれた論考はほとんど目に触れられることがないにもかかわらず、このネットに置かれた「要約」は実に簡単に、すぐに多くのひとの目に触れることだ。どんな論文を書いても、ネットに掲載された他人による「要約」のほうだけが流通することになってしまう。専門的な論文の内容を読むのは、意外に難しいものである。そうであればあるほど、そのような恣意的な「要約」が拡散させられるのであったら、研究者はたまったものではない。

「専門的な論文の内容を読むのは、意外に難しいものである」という一文は、フェミニズムに関してもジェンダー論に関しても無知なゆな氏が誤読してしまうのも無理はない、あるいはゆな氏にはちょっと難しい論文でしたね、という皮肉が込められているのでしょうか。いずれにしても、私はゆな氏が致命的な誤読をしているとは思いませんでした。

既にゆな氏による丁寧な批判が載せられ、研究者による批判もある中、ほとんど不要な言及かとも思いますが、私なりに千田氏の論文について、特に言及したい箇所、及びゆな氏が千田氏に「誤読」と批判されている箇所について、ここに述べさせて下さい(千田氏の態度にも少々言及があります)。千田氏がゆな氏の誤読であると指摘している箇所は、④、⑤、⑥です。

①「ターフ」探しに心を痛めて

まず確認しておかなければならないのは、千田氏の論文は、トランス差別問題に対して心を痛めて書かれた論文ではなく、「差別意識のない女性達がターフ呼ばわりされることに心を痛めて書かれた論文である」ということです。それは、冒頭と末尾に示された問題意識から明らかです。

冒頭(p.246)

 いま、日本のTwitterでは「ターフ戦争」とでもいうべき事態が起こっている。ターフとはTERF――“trans-exclusionary radical feminist(トランス排外主義的ラディカルフェミニスト)”の頭文字をとったものである。本来は、フェミニストの自己反省の言葉として生まれたものだが、いまは意味を変えてしまったようだ。
……(中略)……
 いまや「ターフ」とは中傷の言葉であり、侮辱や暴力的なレトリックとともに使われている――日本でも同じような状況がおこりつつあるのではないかと危惧している。

末尾(p.254)

 先に例に出したバンクーバーの女性センターが破壊された事件では「ターフを殺せ」「ファックターフ」「トランスパワー」という落書きが施設に対して行われた。……(中略)……ターフはある種のスティグマとして機能しており、ターフに対しては何をしてもいいのだという意識が醸成されていることもまた事実である。

このように「ターフとレッテルを貼られた女性達」が「謂れのない中傷」を受けていることを千田氏は論文の冒頭と末尾で強調し、トランスの権利擁護の建前で理不尽な暴力がまかり通っていることを危惧します。そして、以下のように暴力の様子を詳述します(p.254)。

 例えば、terf(s)にrape、fuck、punchなどという言葉を引っ付けて検索すれば、目を覆うようなニュースや写真が出てくる。サンフランシスコの公立図書館では、「ターフをぶん殴る I PUNCH TERFS」と血塗られたタンクトップが展示された。ほかにも、斧とともに「死ね、シスのカスども Die Cis Scum」というスローガンが描かれたシールド、なかには有刺鉄線をまかれたものもある色とりどりのバット、これまた色とりどりの斧やトンカチ、などが展示された。


千田氏が論文を執筆した動機は、2020年1月にトランス差別問題に対する言及をし、その発言を問題視されたためと思われます。

社会学者の千田有紀氏によるトランス女性差別を巡る議論 - Togetter

千田氏によれば、この論文は「そもそも「ターフについて書いてくれ」と依頼されたものではない」のであって「「ポストフェミニズム」について書こうと思っていた」ものであったそうです。しかしテーマの中心に「ターフ戦争」「ターフをめぐる争い」を据えたのは、当該問題に対する言及への批判が想像を超えて激しく、千田氏がツイートされていた通り、「学者生命がかかってる」と危機感を覚え、自身の立場をアカデミックな形で発信しなければならないと思ったからでしょう。


②「ターフ」は中傷の言葉である

ゆな氏の批判にもありましたが、「ターフと名指しされている人々はターフを中傷だと考えている」という説明から、直後に「いまや「ターフ」とは中傷の言葉であり……」という事実言明へと移行しています。ターフと呼ばれる人々が「ターフ」という呼称を嫌がり、これを中傷だと考えていることが事実であるとして、それが実際に中傷であるかどうかはまた別の話のはずです。例えば在特会のメンバーは自身を「レイシスト」呼ばわりすることに反発して、これを中傷だと考えるかもしれませんが、彼らは実際にレイシストなのであって、それは中傷ではないはずです。

そして、千田氏が引用しているwikipediaのTERFの項目では「トランス排除的な視点をもつひとを単に言及するため」に使用される言葉とあるのですから、そこを考慮せずにただ中傷である、侮辱である、と断定するのは不誠実でしょう。

③今起きているのは「ターフ戦争」であり、「ターフをめぐる争い」である

私はかつて千田氏の「トランスと女性が対立させられている」という表現を見かねて、注意したことがあります。この表現の問題点は二点ありました。1点目は当然ながら「トランスと女性」です。これはトランスと女性は別個の存在である、トランスは女性には含まれない、とでも言いたげな表現です。千田氏には「そうですね。すみません」という応答を頂きましたが、その後も「女性とトランス女性」といった表現を多用しています。

2点目は「対立させられている」という部分です。ある人達が暴力を振るわれ、排斥され、排除されている状況を「対立させられている」と表現することに、強い違和感を覚えます。ただ、この点については私と一致しない千田氏の見解なのだろうと深くは追求しませんでした。「対立」という千田氏の現状理解は、「ターフ戦争」「ターフをめぐる争い」という表現で、この論文にも継続しています。

確かに、相互に対立しているわけでもない状況を「戦争」とする表現はないではありません。例えば人類による、年間700億以上の陸生動物、1兆を超える水生動物に対する殺害は、明らかに一方的な大虐殺と呼び得るものですが、ディネシュ・J・ワディウェル著『現代思想からの動物論 戦争・主権・生政治』ではこれを人と動物の「戦争」と位置付けています。そのレトリックの意味するところは当該書籍を読んで頂くとして、しかし千田氏の「対立」「ターフ戦争」は、レトリックなどではなく、現況に対する千田氏の文字通りの理解です。

もちろん、目下起きていることは「ターフをめぐる争い」でもありません。「誰がターフか」を探す犯人探しでもありません。差別が起きているのです。差別問題です。誰が差別をしているのかの犯人を探しているのではなく、ただ、差別があるから、それをやめて下さいと叫んでいるのです。

④トランスは身体とジェンダー・アイデンティティを自由に構築できるという(ジェンダー論の第三期の)発想を採用している

私はゆな氏の批判に同意して、千田氏がそのような前提でこの論文を書いていると考えます。しかし、千田氏によればそれは誤読だそうです。「これがネットでは流通しており、非常に困惑している」と言います。これが誤読かどうか、できるだけ多くの方に『現代思想』3月臨時増刊号を手にとって頂き、第2節「ジェンダー論の第三段階」のp.250~251を読んでほしいです。

 ジェンダーの理論を私なりに大雑把に分ければ、三期に分かれる。まず第一期は……(中略)。第二期は、……(中略)。そしていまや、それらの動向を踏まえて明らかに第三期に入っている。こうした第二期のジェンダー・アイデンティティや身体の構築性を極限まで推し進めた際に、身体もアイデンティティも、すべては「フィクション」であるとされるのであったら、その再構築は自由におこなわれるべきではないかという主張である。
 これはトランスに限らない。美容整形やコスメ、ダイエット、タトゥーなどの身体変容にかんする言説を検討すれば、体は自由につくりあげてよい、という身体加工の感覚は私たちの世界に充満している。(p.250~251)

どうでしょうか。明らかに、トランス(や美容整形等)は「再構築は自由におこなわれるべき」「体は自由につくりあげてよい」とのジェンダー第三期の理論に則って、これを実践している人々であると書いていませんか? これは読み手の、ゆな氏や私の読解力の問題でしょうか。

ツイートにも書きましたが、私の知る限りトランスの方々のほとんどはそのような理論に依拠してなどいません。むしろシス(シス男性であれシス女性であれ)に生まれなかったことを日々苦しんでいます(誰もが日々苦しんでいる、というわけではもちろんありませんが、苦しんでいる友人が少なくありません)。「好きな時に女に変わり、また男が有利な時は男に変身する」というようなトランス像は、まさに千田氏がフォローしているトランスフォビアの人々によって構築されたものです。千田氏はトランス差別問題への言及を批判され、その後(あるいはその前後かもしれません)多くのトランスフォビックとされる方々のフォローを始めました。千田氏が論文執筆にあたって参照したのはTwitter上に溢れるそうしたトランスフォビックな言説ばかりだから、このような理解なのだろうと私は思ってしまいました(しかし、千田氏によれば私のその理解は誤りのようです)。

⑤トランス女性が安全に使えるトイレを従来の「女性」トイレであるとアプリオリに決めるべきではない。

第2節の末尾では以下のように語られます。(p.253)

自分のアイデンティティがノンバイナリー、Xのひとも、移行中のトランスのひとも、すべてのひとが安全にトイレを使う権利がある。そもそも「女性」というカテゴリーが構築的に作られるのであるとしたら、なぜ旧態依然とした狭い二分法に依拠したカテゴリーである「女性」に「トランス女性」を包摂するかどうかが問われなければならないのか。なぜ多様性を否定する二元論を持ち出し、その片方に「トランス女性」という存在を押し込めるかどうかが、「排除」の問題として執拗に問われるのか。問題は「二元論の片方にトランス女性を「女性」として認めて入れる」かどうかではなく、トイレの使用の際に、どのようなカテゴリーの線を引きなおすことで、皆が安全だと「感じられる」かどうか、という問題ではないのか。その基準は性別であるかもしれないし、ないかもしれない。そもそも「女性が安全にトイレを使う権利」とともに語られるべき事柄は、「トランス女性が安全にトイレを使う権利」であるべきだ。なぜそこが従来の「女性」トイレだとアプリオリに決められているのか。私たちに必要なのは、どのような分割線を引くことで、すべてのひとに安心・安全がもたらされるのかを問い、多様性のためには、相応の社会的なコストを支払い、変革していくことに合意することではないのだろうか。

私はこの記述を読み、トランス女性に対して「女性にこだわることはないではないか」「女性とは別に“トランス女性”として生きていけばいいではないか」と語りかけているように読めました。トランス女性が安全に使えるトイレを従来の「女性」トイレであるとアプリオリに決めてはならないトランス女性が使える(「女性」とは別の)トイレを模索しようそのための新しいカテゴリーの線を引きなおそう、と呼びかけているように読めました。(この読解はゆな氏と大差ないはずです)

私も旧態依然たるジェンダー規範、あるいは性別二元論に抵抗することは必要と感じます。しかし、それだからと言って、女性としてのアイデンティティを抱き、女性として生きている/生きていきたい彼女たちに向かって「旧態依然たる二元論の片方に自身を押し込めるべきではない」と語りかけるのはひどく暴力的に思います(加えて、「女性が安全にトイレを使う権利」と「トランス女性が安全にトイレを使う権利」とを等置した書き方にも吐き気を覚えます)。しかしながら以上の私の読解は、千田氏によればこれまた誤読だそうです。

また「「女性」とは別に「トランス女性」という線を引けばいいではないかと論じているわけです」と言うに至っては、非常な悲しみを禁じ得ない。そのようなことをしてはならないというのがこの論文の趣旨である。

「なぜ旧態依然とした狭い二分法に依拠したカテゴリーである「女性」に「トランス女性」を包摂するかどうかが……」、「なぜ多様性を否定する二元論を持ち出し、その片方に「トランス女性」という存在を押し込めるかどうか……」、「なぜそこが従来の「女性」トイレだとアプリオリに決められているのか」、「どのようなカテゴリーの線を引きなおすことで」、「どのような分割線を引くことで」……このような文言は、どうしても、「女性とは別にトランス女性という線を引くこと」を推奨しているように読めるのですが、千田氏によれば「そのようなことをしてはならないというのがこの論文の趣旨」だそうです。

⑥トランス差別の原因をトランスへの差別意識に求めるべきではない

論文の第3節は、トランス女性の権利擁護に際してのフォーマットであるところの「トランス差別の原因をトランスへの差別意識に求める」手法を批判するところから始まります(p.253)。

そして、「私が知る限りのトランス排除的だといわれるひとたちに会った限りでは」と断りを入れて、「トランスに対する差別意識をもっているひとは皆無に近かった」とします。続いて「トランスに対して差別意識をもっていたら、そもそもトランスの排除という問題自体に関心がなく、この問題を避ける可能性のほうが高い」という何やらよくわからない一文(本当によくわかりません。後述します)を記し、次の段落では「彼女たちが差別意識を持っているということはこのように事実誤認だと思うが、もしも仮に差別意識があったとしても、差別の問題を考える際に、その原因としてことさら「意識」を持ち出し批判のターゲットとすることは大きな問題を呼び込む」と始まります。

ゆな氏はこの千田氏の文章を「シス女性たちの恐怖が差別意識から出たものではないということが主張され」と読みました。それに対して、千田氏は「シス女性の差別意識から出たものではない、などということは主張していない」と反論しています。

私としては、千田氏は少なくとも自分が会った限りの人については「差別意識をもっているひとは皆無に近かった」と書いており、「トランスに対して差別意識をもっていたら、そもそもトランスの排除という問題自体に関心がなく、この問題を避ける可能性のほうが高い」という(謎の)一文を挿入しているのですから、「(自分が会った限りでは)彼女たちに差別意識はない」と主張していると考えます。と同時に、「仮に差別意識があったとしても、そこを問題とすべきではない」とも。ただし、「私が知る限りのトランス排除的だといわれるひとたちに会った限りでは」という限定があるのなら、そんな狭い体験を根拠に「彼女たちが差別意識を持っているということはこのように事実誤認」と書くのは果たして妥当なのか、首を傾げます。

トランスに対して差別意識をもっていたら、そもそもトランスの排除という問題自体に関心がなく、この問題を避ける可能性のほうが高い。(p.254)

これは本当によくわからない論理です。ゆな氏のブログでも指摘されていることですが、ここでも繰り返させて下さい。この問題を好んで言及する――あいつらを排除するのは正当だという形で――差別主義者はたくさんいるでしょう。レイシストは民族的マイノリティをめぐる問題に、「奴らを排除するのは正当だ」という形で繰り返し言及するはずです。ホモフォビアは、同性婚をめぐる問題に関心を持っています――同性婚など認めてはならないと声高に叫びながら。種差別主義者は動物の問題に好んで言及します――動物などとるに足らない存在だという形で。千田氏の論理だと、レイシストも、ホモフォビアも、民族的マイノリティや同性愛者に対して差別意識を持っていない、ということになります。

差別という現象が常に「差別意識」からのものではない、ということを私達はよく承知しています。差別や排除は、私たちの社会の先入観に由来するものも少なくないでしょう。異性愛のモノアモリーが「普通」とされている社会では、そうではない恋愛の形を選択する人はギョッとされるでしょうし、時には差別や排除の対象となるでしょう。これに対しては、ゆな氏の文章を引用させて下さい。

だからこそそうした社会や女性/男性の定義に異を唱え、従来の常識が偏っていることを毎日のように訴えているのです。これはかつて「女性には知性がない」だとか「選挙権に相応しくない」だとかという常識があった時代に、そうした常識に抗ってきた女性たちと変わりありません。果たして千田氏は、そうしたかつての女性たちにも、「女性と言えば多くのひとが知的に劣ると考えていたその社会で、女性が選挙権を求めるということに混乱を覚えるのは、必ずしも「差別意識」からではない」などと擁護するのでしょうか? 差別に抗う運動は、いつだって特に意識することなく単に常識とされてきた不公正な社会の構造への異議申し立てだったのではないでしょうか。


⑦決してトランス女性には寄り添わない視点

千田氏は論文で言及したターフをターゲットにしていると思われる暴力事件、破壊活動について「トランス活動家による暴力的な活動とは断じていない」と書いています。それはその通りです。種々の暴力事件、破壊活動を挙げながらも、あくまで「トランスはたんに、破壊行為の口実として使われている可能性すらある」としており、トランスの権利を擁護する人々による破壊活動であるとは決して書いていません。そこに嫌らしさを感じる人もいるのではないでしょうか。(なお、トランスの権利を擁護する人々のことを、千田氏は「トランス活動家」と呼びます。「トランス活動家」という呼称はいい意味で使われる場合もありますが、最近はトランスヘイトの文脈での使用が圧倒的に多いです)

千田氏はトランス差別問題への言及を批判された直後に「過去入浴中に男性が入ってきた」というエピソードをTwitterで語っています。それ自体は重大な性被害であり、語られるべきです。しかし、「トランス女性が浴場に乱入してきたら」というあらぬ懸念がTwitter上に蔓延し、トランス女性が心を痛めていることを知っていれば、トランス差別への言及の仕方を注意された張本人が、そのタイミングでそのことを語ったりするでしょうか。それが更なるヘイトと恐怖を煽ることになるとは思わないものでしょうか。もしもそこに悪質な意図があるのであれば最低ですし、そうした意図がないのであれば、あまりにも無知で脳天気に過ぎ、この問題を語る資格があるとは私には思えません。


繰り返しますが、語るなと言っているのではなく、批判された張本人が、そのタイミングでそのことを語った意味を問うているのです。日本では、日本国籍の人による大部分の犯罪の他、外国籍の人々による犯罪も起きています。特定の国籍の人への排除が問題となっているその時に、その差別的な姿勢を批判された張本人が、当該国籍の外国人による犯罪のニュースをリツイートすることに、何らかの意図を読もうとすることは邪推でしょうか。

(論文の主題は日本のtwitterの「ターフ戦争」でありながら)バンクーバーの女性センターが破壊された事件を紹介し、そこで「トランスパワー」という落書きがあったことにまで触れながら、「これらの暴力行為がトランス活動家によるものだとは書いていませんよ」と言うのは本当にずるいなぁと感じます。唐突に浴場への男性の乱入を語ったことについても、「トランス差別の件とは関係ありません」と言われるでしょう。千田氏がこのようにシス女性の――千田氏の言葉を借りれば「女性」の――被害を詳細に書きながら、トランス女性が遭遇している被害にはまるで言及しないのも、紙幅の都合を勘案しても、①で述べたように、この論文が「差別意識のない女性達がターフ呼ばわりされることに心を痛めて書かれた論文」だからなのだと思います。頭を占めているのは、彼女たちが「不当にもターフ呼ばわりされていること」、「不当なバッシングを受けていること」への懸念なのでしょう。トランス女性自身の苦悩に寄り添っている姿勢はまったく見えません。

それは、千田氏の論文を擁護、またはゆな氏の批判を批判する影響力あるトランスフォビア、トランスヘイターを積極的にリツイートしていることからも明らかです。千田氏が自身を擁護するものとして選択的にリツイートしている人達の中には、ことさら「生物学的性別」「トランス女性がどこまでいっても女性ではないこと」「トランス女性を決して女性と認めるべきでないこと」を繰り返し訴えている、極めて影響力の大きいトランスフォビア、トランスヘイターがいます。私はあの人達の発言はトランスジェンダーの子供達、若い人達を自殺に追い込むレベルのものと感じています。(トランス女性の中にはSNS上の言説に心を痛め、自ら命を絶った人もいます。彼女の自殺が、そうした影響力のあるヘイターの暴言、あるいは影響力あるヘイターに煽られた人々に浴びせられた暴言によるものかどうかはわかりません)そうした差別主義者のツイートをリツイートする人が、トランスジェンダーに寄り添った目線を持っているはずがありません。千田氏の研究者としての態度は推して知るべしです(あの人達を差別主義者であると知らないのなら、一体Twitterでどんな情報収集をしていたのだという話です)。

言うなれば、千田氏はどこまでも、千田氏が「女性」と見なす人々の視点に寄り添っているのでしょう。トランス女性の苦悩に寄り添い、彼女たちと手を繋ごうとする姿勢は見えませんでした。もちろんそれはこの論文の主題ではないと言われれば、何も言いません。

以上が、私が千田氏の論文、及び千田氏の態度から感じるところです。長くなってしまい、申し訳ありません。(了)

※※※

2月23日3時31分、一部わかりにくいと思われたところを削除し、追加修正をしました。

いいなと思ったら応援しよう!