豊穣の女神デーメーテールと大地の女神ガイアの名前について
豊穣の女神
ギリシャ神話には多数の神々が登場する。
特に重要な神格とされるのが最高神ゼウスを中心とするオリュンポス十二神で、ゼウスの姉に当たる豊穣の女神デーメーテール(Δημήτηρ)もその一員である。
ギリシャ語に興味がある人であればこの名前を見て真っ先に想像するのが「母」を意味するμήτηρとの語源関係だろう。
μήτηρはラテン語のmāterや英語のmotherと同じ語源を持ち、印欧祖語の*meh₂ter-(または*māter-)に遡る。
母を意味する幼児語*meh₂-/*mā-と親族名詞の接尾辞*-terを組み合わせたといわれる単語である。
語形的にも"豊穣をもたらす母なる存在"というイメージとも符合する解釈といえよう。
さらに一歩進めて前半のΔη-を「大地」の意とする説も有名であり、この女神の名を全体で「大地の母」とする解釈もすでに古代の時点で広く存在していた。
ギリシャ語には「大地」を意味するγαῖα(ガイア)の別形としてγῆ(ゲー)という形もあり、この語との音形の類似も深い繋がりを窺わせた。
ギリシャ神話のデーメーテールはローマ神話ではケレース(Cerēs)と同一の存在と考えられ、共に豊穣に関する語源を持っていると見なされた。
(なおケレースの語源は今ではgerō「生み出す」ではなく類義語のcreō「生み出す」と関係があると考えられている)。
Δη-とγῆの謎
しかしそこには複雑な問題がある。
それはΔη-そのものはγῆと違って単独で大地を表す名詞として使われているわけではなく、先頭子音にも違いがあることによる。
果たしてΔη-は本当に「大地」の意なのだろうか。
仮にそうだとしたらγῆと語源関係はあるのか、あるとすればなぜγとδの違いが生じたのか、そもそもこれらの語は本来語と外来語のどちらなのだろうか。
地母神の謎
また、実はγαῖα, γῆ自体も語源がはっきりしない単語である。
この語は大地の女神ガイア(Γαῖα)の名としても有名で、その語源探究はガイアとデーメーテールの名前の関係を見極める旅にもなるといえよう。
(この女神はまたローマ神話のテッルース(Tellūs)と同一視された)。
先史の記憶
ところで古代ギリシャ語というと他の言語に外来語を送り出した側の印象が強く、受け取った側としてのイメージは強くないかもしれないが、実は先史時代の時点ですでにかなり多くの外来語を受容してきたことが知られている。
例としてはἀσάμινθος「バスタブ」などの-νθ-を持つ単語などが挙げられることが多い。
解釈が分かれる単語も多いが、印欧祖語からギリシャ語各方言への音変化パターンに沿わない語彙、語形の独特さ本来語とは解釈しがたい語彙、明らかな外来語などは相当数に上るため、先住・隣接言語から大きな影響を受けたこと自体を否定する学者はまずいない。
影響元の言語も複数あったようで、先史~古代の他の印欧語の場合も非印欧語の場合もありうる。
ギリシャ語は特に古くから文献を残しているため、むしろこの語族の中でも外来語を多く受容している印象さえ受けることもある。
注目すべきはオリュンポス十二神などの主要な神々にギリシャ語的な解釈が成立しにくい神格が多いことである(知恵の女神Ἀθηνᾶ「アテーナー」などが好例)。
そのためデーメーテールの名前の起源に検討が必要になるのも自然なことといえよう。
ただしそうした先住・隣接言語はギリシャ語と違って資料が多いとは限らないため分析には難しさが残る。
ある単語が外来語だったとして供給元がギリシャ語以外の印欧語なのか非印欧語なのかという問題ある。
(こうした先住・隣接言語の問題については別の機会にも特集したい)。
女神の名前をめぐる旅
こうした事情もあってデーメーテールの名前の解釈は容易ではない。
しかし印欧語族の研究には長い蓄積があり、その中にも手がかりは残されている。
今回はそんな豊穣の女神の名前の起源の話をしたい。
そしてそこには先史時代の言語と神話の歴史に続く豊穣な世界が宿っていると私は思う。
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