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旅/屋久島で怖かった話

1998年3月、一週間の予定で、初めて屋久島に行った。鹿児島からのトッピーの中で、キロロの「長い間」が流れていたのを覚えてる。

縄文杉を見にいったのだが、登山経験は皆無で、マジでキツかった。登山には足首を覆える靴がいいと聞いて、バイクのブーツで登ってしまって、足の裏の皮がベロベロにむけた。

疲れすぎて、早く山小屋で休みたくて、縄文杉は2秒しか見なかったww

翌年のリベンジを誓った。

そして1999年3月、与那国と石垣でキャンプしたあと、二週間の予定で屋久島に入った。

この一年、当時出ていた「月刊Outdoor」という雑誌を、最新刊から二年分さかのぼって熟読し、奥多摩の低山を歩き回った。もはや知識も装備もバッチリなのだ⁉ ゴアテックスの雨具まで持ってるのだ‼

友達のGちゃんと合流するまでの一週間、山に入っては出て、を繰り返して、本番でバテないように調整した。

そして本番。宮之浦岳に登頂しつつ、二泊三日で屋久島を横切るつもりだった。

宮之浦のキャンプ場からヤクスギランドまではバスだったと思う。そこからヤクスギランドを抜けて、淀川入口から山に入ったのだが、ポストが見当たらず、あるいは見落として、登山届を出し損ねてしまった。

これ、結構不安になるのです。万が一の時も、誰も助けに来てくれない。屋久島は、登山の難易度はそんなに高くないのに、遭難する人が意外に多い。なんでだと思う?…

淀川小屋で一泊。翌日は早朝より行動。花之江河を抜けて宮之浦岳登頂。曇天。ってか霧深し。山頂からはスイスが見える!!って聞いてたのに、なーんにも見えないじゃんか。

でも、ここまではまだよかったのです…

鹿之沢小屋を目指して下山途中、突然、Gちゃんが止まった。
「ヤバい、オワリちゃん、動けない…」
ふだんから不摂生のGちゃん、酒ばかり飲んでるGちゃん、アウトドア関連のプロ職でありながら懸垂が一回もできないGちゃんが止まってしまった。

そして、完全に霧にまかれました…

(ボクはまだまだ動けそうだ。Gちゃんにはここにいてもらって、助けを呼びに行こうか。来た道を戻らず、宮之浦歩道から縄文杉へ抜ければ、プロのガイドがいるだろうか。どうしようか、どうしようか、)

しばらくすると、Gちゃんはゆらりと立ち上がり、無言で動き始めた。ホッとして、ボクが前に出て、二人で歩き始めた。が、

「アレ?さっきここ来たよね?」と言いながら半歩出ようとしたら、
「危ない!! そこ道じゃないっすよ!!」とGちゃんに止められ、危うく谷に落ちるとこだったり…

明らかに道だね、というところに出たけど、標識がぜんぜんなくて、この道で合ってるのか確信が持てない。ガムの包装が落ちていて、誰かが通ったあとだね、って安心したのもつかの間、拾ってみたら、昭和58年、とか書いてあったり…ヒュウウウウウゥー…

誰かにいたずらされてる?…

…ようやく鹿之沢小屋が見えた時は、マンモスうれピー!!マジ卍!!状態だった。(死語を連打してみた。)

そして、恐怖の一夜が始まった。

夕方、雪が降り始めた。鹿之沢小屋には、ボクとGちゃんしかいなかった。ってか、淀川小屋を出てからは、互いのほかには、誰にも会わなかった。

鹿之沢小屋には、ボクとGちゃんしかいなかった。そのはずだった。なのに、もう一人、誰かがいるのだ。

すきま風なんか入ってこないのだ。物も、二人の装備のほかは、小屋には何も置いてなかったのだ。なのに、

部屋の隅でガサガサゴソゴソ、誰かが、紙のような布のような、何か包む時に使うようなものを、いじっている音がするのだ。

二人とも、そのことには一言も触れなかったが、たまに目が合うと、苦笑いしながら少しだけ首をかしげた。

ヘッドランプを消して、真っ暗になった。することもないから、早めに寝袋に入った。何かをいじっている音は、まだ続いていた。Gちゃんは、眠ると、この世のものとは思えないイビキをかくのだが、そのイビキが聞こえてこない。

夜更けて、子供が確かにこう言った。
「この人たちは大丈夫だね。」

とっさにボクは、バサッと頭のてっぺんまで寝袋にもぐりこんだ。全く同時に、隣りのGちゃんもバサッと動いた。

(翌日、花山歩道を抜けて大川林道分岐まで歩き、ヒッチハイクで宮之浦まで戻った。)

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