人が本当に死ぬタイミングは誰からも思い出されなくなった時。
叔父を忘れない
私が産まれてすぐ27歳で事故死した叔父の話は祖母や父から聞いた話と遺影と仏壇に飾ってあった写真だけで、私には叔父の記憶はない。
それでもアクティブで人気者で葬式では参列者が押し寄せて大変だったと聞いていたので私はなんとなく叔父が好きだった。
父が一昨年亡くなって叔父の親族は母と姉である伯母だけになった。
祖父母と父は私の記憶に鮮明に残っているが、私は叔父を覚えていない。
私の好きな叔父を思い出せる人がどんどん居なくなっている。
本当の死がタイトルの言葉通りであれば叔父の本当の死は私が祖父母や父から継いだ記憶を思い出さなくなった時なのではないかと少し焦りの様なものを感じ、私は叔父の記憶を補完するかのように叔父のアルバムを開き、棚に残されていたレコードを手に取った。
叔父の小学生か中学生時代の写真を見ても若過ぎて最初はどの人が叔父か分からなかったが、写っている頻度から叔父の姿やキャラクターが見えてより好きになった。
私が叔父が生きていたら面白い人だっただろうと想いを馳せている間、叔父は私の記憶として「生きている」
私が生きている限り、叔父の事を考えている限り叔父は生きている。
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希死念慮について
私には全く無い「希死念慮」が何なのかここ最近とても気になって調べていた。
友人や知り合い、有名人がそれに駆られて去っていく度にぼんやりどういう仕組みだろうと考えていた。
知っている誰かが亡くなった時、その死を知らなければその人は確かに生きているし、死を知らされてもその死に確証が持てなければ生きている可能性も捨てきれない。
昔の偉人達の事は自分は直接知らないし、面識もない。
しかしその時代を生き、共に過ごした人たちからの話を何年も何年も受け継いで、その人が生きてる所を見たこともない私たちもその人が生きていた事を確信している。
生きていた事は「情報」としてだけ残る。
「(人を含めた)この世の全ては情報だ」
と言っている人がおり、私も「確かになあ」と思う。
「忘れられる」というのは日常生活に置いても不安な要素であり、覚えていてほしい、忘れられたくない、出来れば積極的に思い出して考えていてほしいという欲求は人間の本質のひとつではないだろうか。
誰からの記憶からも消える時、人は死ぬのだから誰かの記憶に残りたいと強く思い、時に自ら死ぬ事を選択して、永遠に生きようとする人も居るのだろうか。
もちろん自ら死ぬ人の全てがそうではないと思う気持ちもあるけれど、希死念慮について調べると必ずと言って良いほど、希死念慮の根幹には自己重要感や自己肯定感の低さから来る承認欲求を満たせない事が原因のひとつとなっていると言われており、人の欲求の本質である「承認される」事に舵を切り過ぎた結果、どうにかして誰かの記憶に残りたいと自分で実行可能な自殺を選んでしまったのではないか。
それが意識的でも無意識であっても。
そしてその根幹には「生きていたい」という強い気持ちが伺える。
生きる為に死を選ぶ。
何とももやもやする矛盾に満ちた結論だろうか。
このもやもやも解消していきたいところだが、今はこの結論を受け止める事が優先事項なので、一旦お風呂にでも入って脳みそを湯に沈めるとしよう。
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