仮面を回転させることとスローの稽古で起こったこと
5月の終わり、東京巡礼の撮影の一環として、上野公園で仮面をつけて踊り、とても濃厚な時間を過ごしました。帰りには足がガクガクで身体もヘロヘロになるくらいに集中した感じで、最高に充実してましたし、面白かったです。
仮面の深みを経験しているというか、咒具としての仮面の可能性が開かれようとしているというか、まさにそのような実験的な現場にいたと言えるのかもしれません。
上野の森にはとてもよい場所がありました。大きな木がたくさんあって、大都会の真ん中でありながら、古くからの大地のエネルギーにも触れられる場所だったと思います。地下鉄の響きや、雑踏の騒音さえも、愛おしく、東京巡礼の意味を感じました。
同じ森の中であっても、一人で踊るのと、こうして何人かで集まって踊るのとでは、やはり全然違うとも思いました。見ている人がいる分、そして撮影されている分、密度がとてつもなく濃くなり、体験も深まったように思います。この日起こったことは夢に出てくるかもしれないと思うほど、濃密な日となりました。
そしてその翌日には原初舞踏の定例稽古がありました。前日の仮面の余韻が強く残る中での稽古だったので、それなりのことが起こったと言えるでしょうか、とても印象深い稽古となりました。
特に印象に残ったのは、定番のお茶碗を使ったスローの稽古の中で起こったことでした。お茶碗を手に持ち、顔の前に持ってきた時に、突然そこに仮面が見えた気がしたのです。
それは、前日上野において、仮面をつける時の所作として、まず仮面を正面から見つめ、やがて仮面をゆっくり回転させて真横から見て、さらに仮面の裏側から見つめてから、ゆっくりとその中に顔を入れていくように、仮面を顔につけた時のイメージが影響していたのだろうと思います。
突然お茶碗の表面に仮面の表が重なって見え、そしてほとんどそれと同じタイミングで、裏側に「もう一人の自分」がいて、こっちを見ているように感じました。
それは、お茶碗の裏側にもう一人の自分がいるということであり、そしてそのお茶碗から水を飲むということは「もう一人の自分(他者と言うべきかもしれません)」との出会いであり、そこは契りの場であったと思い、感極まってしまったのでした。
実際のところ、夢や幻のような話でもあり、昨日からの連続で負荷のかかった状態の中だったので、整理のつかないままになっていました。
しかしそんな時にFacebookの半田さんの、この投稿を読んで、仮面を回した時に起こる不思議な感覚は、ここに書いてある外面、内面ということと関係があるだろうと思ったのでした。
たしかに、あの時、あの瞬間に何か不思議なことが起こっていたのはたしかなわけで、それを構造的に説明しているのがこの投稿と言えるのかもしれません。
仮面をただの物と見ている時には実空間の中でのただの物の回転なので、何も特別なことはありませんが、仮面の表と裏に他者の内面と外面がオーバーラップして見えてくるような時には、次元が変わりますから、当然のこととして意識がグラグラするような体験となるだろうと思います。
仮面を回転させた後で、実際に顔につけるということは、自己側から他者側に回り込むことを意味していて、だからこそ意識の変容が起こりうるし、それはやはり虚の空間が関係しているからと言うことになるのかも知れません。
お茶碗の表面が仮面の表に見え、それと同時にお茶碗の裏が仮面の裏だと、意識に浮かんだという感じです。
前日に上野の森で、仮面を回転させてから仮面に顔をつけるという経験をしていたからこそ、お茶碗の裏側にもう一人の自分がいるというような感覚になったのだと思います。
しかしながら理解が追いつかず、稽古後のシェアでもうまく話せず、消化不良のままだったのですが、少し時間をおいて、整理されてきたように思います。
たぶんこれはとても大事なことだと思うので、自分なりにさらに試したり調べたりして、もっと掘り下げていきたいと思っています。
下は3月に仮面の稽古をした時の写真と動画。
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