ミシャクジ
昨年の新年会ではテーマは「交替化」という言葉を使いました。これはそろそろ天津神から国津神への交替の時期なのではないかということを含めていて、そのためにはまず自分から古い仮面を外して岩戸を開く時ではないかということでした。
神戸が揺れた時に、神の戸が開いたと感じ、これから大きく動き始めるのかも知れないと思ってからちょうど30年経ちます。奇しくも今日は地震のあった日ですね。
今回、思っていた以上に諏訪大社が国譲りにおける鍵になった土地であったということを知り、いろいろと思うところがありました。
昔、節分の豆まきが、鬼(国津神)が再び戻ってこないようにするための呪術であり、他にもしめ縄や雑煮にも、同じような呪術的封じ込みの意味合いがあるという話を聞きました。
再交替化をさせないための布石と言いますか、タケミナカタが入って以降の諏訪にもそのような思惑が入ったのだろうという気がします。いわゆる生贄的な儀式に旧約聖書の匂いがするということも、もしかしたらそういうことと関係あるのかも知れないとか。。。
もっとも、天津神の支配があったからこそ、世界は繁栄したし、これだけの科学物質文明を構築することができたわけで、これ自体は宇宙的な予定調和だったと言えるのだと思います。それは宇宙の進化過程において必要なプロセスであった。けれど、そろそろフェイズが変わり、交替の時期が来たのではないかということです。
だから、これまでの功績をちゃんと評価し、尊重しつつ、しかしもう次に進む時がきてるということで、ヌーソロジーのような「別の見方」が現れてきたのではないかと思うのです。
とは言え、昨日も書いたように人それぞれに立っているところがあり、タイミングがあり、そのどの立場も尊重する姿勢が大事なのだと思います。
だからこそ自分自身の内在における旅に、自ら飛び込むということしかないわけです。そしてそれを誘うのがもしかして「ミシャクジ」というものの正体なのではないかと思ったりもします。いずれにしてもやはり孤独な道ですね。カスタネダが谷底に向かって飛んだのとたぶん同じことなのかも知れません。
この動画を見ていて、この投稿を書きたくなりました。