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後ろに意識を伸ばす
昨日の原初舞踏の稽古の中で、僕にとって大きかったのは、後ろに意識を伸ばしたことで、たくさんの過去に出会った人の存在を感じたことでした。
過去に縁のあった人たち、今はもういない人たち、まだ生きているけれどもう会うことはないであろう人たち、後ろにそのような人たちの存在を感じながら、床稽古に入ったので、気がついたら床に横たわっているときに、その人たちも一緒に横たわっているような感覚になっていました。
いろんなことがあったけれど、それらはすべて僕の経験であり、もう会いたくないと思った人であっても、やはりそれは関係者であり、それは「わたし」の範疇なのかも知れないと思って横たわっていました。
横たわりながら、全てをないことにはできない以上、それはすべて自分であり、それら自分を全てひっくるめて受け入れてこそ、本当の意味で、「我ここにあり」と立てるのであろうということを感じたのでした。
鈴が鳴ったときには、起きなきゃと思いました。そして少しずつ身体を起こしていくときに、自分が起き上がることで、周りに横たわっていたかつての関係者も一緒に起き上がっていくような気がしていました。
かつてトラブルがあり、忘れたいと思った人もいたけれど、その人が最後まで動けないように見えたので、手を伸ばして一緒に立ち上がろうとしたら、そのまますんなりと立ち上がることができて、良かったと思いました。
立ち上がり、動き出しながら、「わたし」として動く感じがして、それは過去のいろんな経験を受け入れること、特に忘れたくて見ないようにしていたものも、自分であることを受け入れると決めたことで、より「わたし」の質量が増したような気がしたのでした。
おそらく、その先に「あなた」との出会いがあるのだろうと思います。
しかしこの「わたし」としての質量をより満たすために、稽古ということをするのかも知れないなと思いました。何度も積み重ねていくことで、やがて準備が整うのかも知れません。
これは僕なりの解釈でもあり、僕なりの体験なので、これが原初舞踏だということではないかも知れませんが、自分の中で起こったこととして、記録しておこうと思います。
稽古から一夜明けて、昨日のことを反芻しながら、こうして記録するのは、僕にとっての楽しみです。後ろを意識するということは、稽古の中でなくても、普段からできることだと思うと、人を見ているときに見え方が少し変わったことに気がつきました。
どの程度、後ろに意識を伸ばしているか、それによって何か濃さが違うというか、深さが違うというか、そういうことがあるのかも知れません。これは今まであまり意識していなかったところなので、これからその辺りも意識して生活してみようと思います。