着物を着ること、着物を脱ぐこと
8月25日の稽古でとくに心に残ったのは着物を使った稽古でした。
着物は、まずは布の肌触りが他のどのような服とも違うと思います。それに加えて布の持つ匂い、着物自体の持つ重たさが、皮膚を通して伝わってきて、手に取り、羽織る段階ですでに卒倒しそうなほどでした。
着物に袖を通す時、袖の形状を確認しながらも、やることは手を未知の領域に入れて行くということで、やがて迷路のような袖を通り抜けて指先が袖口から出た時に感じるフレッシュな空気感は独特のものがあって驚きました。袖を通すことで、もしかしたら次元の違う領域に侵入していくのかもしれません。
左右の袖を通し終わり、羽織る状態となり、裾を調節し、襟を正すことで、明らかにそれまでの自分とは違う自分になるということを感じました。いつもの「われ」でなく、この着物を羽織った「われ」は明らかに着物の持つエネルギーに影響を受けた「われ」であり、着物の持つ属性を背負った「われ」として立っていたのだと思います。
それは居心地悪いということでもなく、ある種の安心感もあり、むしろ新たな自分を発見するようなときめき感もあり、もしくは古い自分を再確認するようなところがあったかと思います。
思い返せば、子どもの頃、父が呉服屋を営んでいたために、日常生活の空間に着物やら反物が普通にあるような空間で育ったということを思い出します。大量の反物が入った箪笥がいくつかあり、それら布がたくさんある空間の匂いというものは、今から思えば他にはない独特の空間だったということを思います。
反物の芯となる丸い木材や紙管は遊び道具として、工作の材料として、常に山のようにありましたし、また着物の端切れも身近にたくさんありました。母はよく着物の仕立てで針仕事をしていたので、その横で遊ぶというのが僕にとっての普通の光景だったように思います。
それらの布にまつわる記憶というものは、僕にとっては特に子ども時代の皮膚感覚や匂いの感覚と結びついているような気がします。そこには父と母と妹と暮らした、昭和の時代の日常の、さまざまな風景が混ざり込んでいて、その中には単にノスタルジーとかでは片付けられない、嵐のような記憶もあり、そのようなことも含めて、着物を纏う時に一気に想起されてくるものがあるのかもしれないと思います。
また、稽古で使った着物自体が持つ履歴というものも、見えないところでは働いているかもしれませんし、兎にも角にも着物に袖を通すということはまさにその着物特有の時空宇宙を纏うことにも似ていると思います。
そう言えば、以前着物を使った稽古をした時に、仏壇を着るような気がしたということを書いた記憶がありますが、今回の稽古においても、それに通じるような感覚に包まれて、その上でそこに「われ」として立つというところから始まったのが、今回の稽古だったのだと思います。
着物を脱ぐということが最初のミッションでした。すでにその着物を纏ったことで生まれていた一体感というものがあり、宇宙感というものがあり、それを脱いでいくということは、かなりのためらいが湧き起こりました。
着物で守られていた空間を自らの意思で剥ぎ取っていくわけです。少しずつ襟を広げていくことで、入ってくる空気は涼しくて爽やかでしたが、それと同時に曝け出される内側のことを思うととてつもなく恥ずかしくもあり、新しい空気の侵入を許すということの怖さとためらいと、しかしそれをこそ待ち望んでいたというような期待感との狭間で、何度も逡巡し、開いては閉じ、衝動に従ってくねる身体を感じながら、少しずつ肩が出て、袖から腕が抜けるのを感じていました。
やがて最後に右の手の指先にかろうじて引っかかった着物の袖を感じた時に、この着物から指が離れた時には「われ」は死ぬのだということを思いました。それゆえに最後の瞬間が来るまでしっかりと感じ切り、やがてその瞬間を迎えられたように思います。
最後にはあっけなく手から離れてはらりと落ちた着物を感じました。しばらくしびれた身体を感じながら、ゆっくりと脇に捌けると床に落ちた着物が目に入りました。その着物の落ちた形が、まさに先ほどまでの「われ」の痕跡であり、死に様であるということを感じ、あとは後ろに控えていた後見者に全面的に任せればよいのだと思うと心底ホッとしました。
後ろで控えていた人は、その落ちた着物を見つめ、やがて静かに、丁寧に、うやうやしく手に取り、自らの方に引き寄せていかれました。その布を感じ、その構造を確かめ、ゆっくりとひとつひとつの過程を味わうように点検し、やがてゆっくりと手を袖に通していかれました。
そのように着物を扱っていただけること自体が、「われ」の鎮魂となっていたようにも思います。その後、苦労しながらもその着物を羽織り、襟を正してしっかりと美しく着物を着ていかれる姿を見た時に、本当に成仏できたということを感じ、感謝の気持ちでいっぱいになりました。
その後、逆のパターンとして、自分が後見となり、着物を引き継ぐこともしましたが、やはり他の方の脱いだ、床に落ちた着物は、その方の生きた痕跡であり、とても軽々しく触れられるようなものではありませんでした。
ゆっくりとその存在の痕跡を悼みながら、まずはそのエネルギーを感じること、そしてさらにゆっくりとじゅうぶんに時間をかけて、その着物を感じ、点検し、選択し、やがて自らもその着物に袖を通すということにつながっていくのだと思います。
これは、前回8月11日の稽古でやった枝を次々と手渡していくコロスの稽古にも通じるものがあったと思います。コロスの稽古ではより俯瞰的にマクロの視点での稽古でしたが、今回の稽古では一人から一人への受け渡しの場面を、より丁寧に事細かく体験するということだったかもしれません。
一人稽古を超えて、複数での稽古、他者を交えての稽古をすることで、目の前の他者と稽古の中で立ち現れる他者との間の差異ということを感じます。
やすやすとは触れられないのが舞踏の中での他者でありますが、今回着物を使い、前回は木の枝を使うことによって、よりそこにつながりを感じられたということも大事な発見だったと思います。