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原初舞踏と縄文と所作の稽古
9月10日の原初舞踏の稽古でのこと、オーム斉唱の響きがとても心地よかったです。
斉唱が始まると、稽古場が三内丸山遺跡の大きな集会用の建物のように感じられ、この響きはきっとあの時代にもあったもので、その時の空間がここに現れているというような感じがしました。
時々聞こえる、倍音の響きは、きっと時間と空間を超えて、この宇宙のどこかで発せられた同じ響きが、聞こえてきているんじゃないかというようなことを思いながら、音に同化することでNow Hereが、だんだんとNowhereになっていくのを感じていました。
8月の終わりに縄文の土偶を見て以来、ずっと縄文の響きが身体に共振してきているようで、いきなり三内丸山の遺跡の中に飛んでいったのは必然だったのかもしれません。
そして、最初はいつもの床稽古でしたが、とても深まっていたといいますか、身体の中で時々起こる小爆発を一つ一つ味わいながら、時に身体を絞り、そこからまた起こる衝動に打ち震えながら、夢中でそこに立っていたという感じでした。
最後にはあちら側に手を入れて、動かしながら、味わいながら、今自分にとって必要なことが起こっていたという感じがしました。
この動きが、見ていた人からはどう見えていたのかは、わかりませんが、自分としてはとても楽しかったし、一生懸命身体を通してその場を泳いだというような感覚が残りました。
こういう充実した感じというのは、先ほどのオーム斉唱から続く、縄文の影響もあったのかもしれません。縄文もまた後ろの空間であり、リアルに共振を感じるようなところがあるので、その影響があったような気はします。
そして、次にスローの稽古です。いつも通り、お茶碗に向き合いますが、新たな試みとして一つ加えられたことは、息を吐きながら、そのまま地中深くまで下ろしていくというプロセスを入れたことでした。後ろに意識を伸ばすだけでなく、地中深くにまで意識が届き、それだけで意識は変性していったように思います。
お茶碗との関係が尋常ではないくらいに深くなったような気がします。たぶん手がお茶碗になってしまいましたし、意識はお茶碗の中に入っていて、至福の時を過ごしました。
今まで何度もこの稽古をしましたが、今回、最もすごい体験したと言ってもいいような深い体験になったと思います。
お茶碗から手を離しても、もう身体中がお茶碗と同化していて、あまりの気持ちよさに震えていたという感じでした。それはあまりにすごい体感だったので、静かに静かに、いつまでも味わっていたいというような感じでした。
今も、これを書いていると、その時の感覚が蘇ってきて、その感覚の中に没入してしまいそうになります。忘れ難い経験となりました。
そして、最後に最上さんが、「前から所作の稽古をしたかった。」と言われ、説明されました。
二人で向き合い、お互いに目で触れ合いながら、右手を挙げて「我ここにあり」を宣します。そして右手を下ろしてから、左手を腿に乗せ、相手に向かってお辞儀をし、また元の位置に戻ります。
ざっとそのようなことをするわけですが、その10分ほどの時間も、僕にとってとてつもなく深い、忘れられない時間となりました。
「さわる」と「触れる」の違いについては、少し前にも書きましたが、やはり、触りながら相手を見るということは、相手を人として見るというのではなく、物として見るというようなことなのかもしれません。
しかし、普段、人と接する時、「さわる」ように見ることがほとんどだなということも思いました。
「触れる」ように見るようになった途端に、向き合った相手の人との間の緊張感が薄れ始め、むしろ懐かしい、愛おしい感覚が湧き上がってきました。
僕が向き合った人は、身体の大きな男性で、どちらかというと男性性が強い、あまり感情などは表に出さないようなタイプの人だったので、最初は少し緊張していたのですが、「触れ」始めた途端に、とても優しい空気になりました。
相手を包み込むような気持ちになりましたが、同時に相手の方からも包まれるような感じがして、とても優しい人なんだということが伝わってきて、思わずうるっときました。
そして右手をゆっくりとあげ、お互いに見つめあっている時には、これは奇跡的な瞬間だなと思いました。
「我ここにあり」とお互いに宣言し合いながら、それぞれを受け入れ合えていると感じたんですよね。両方が「我」を表に出しながら、こんなふうに向き合っていられるということが、たしかに奇跡的なあり方なのかもしれません。
でも、今それが起こっていて、お互いに認め合っていて、相手の優しさと、強さを感じていて、また逆に僕のことも尊重されて、認められているということを感じたのでした。
そして、右手を下ろした後、左手を腿に当てて、お辞儀をします。相手を受け入れ、尊重することを、お互いに向き合いながら、認め合うことが、お辞儀の意味なのだなと思いました。
あとで、他の方がやるのを見ながら、このお辞儀のプロセスは、「おひけぇなすって」とヤクザが挨拶する時の、間合いに似ているなと思いました。
所作というものは、儀礼であり、所作を介することで、二人の空間に秩序がもたらさせるのだということを思いました。
また、二人が向き合うという意味では、「我-それ」から「我-汝」への意識変容を起こすということでもあり、それは次元を上がるということであり、それこそが踊りにつながるべき、身体、意識のあり様なのだということを思いました。
私とあなたが出会う時に、ただ物理的に出会うだけでは、壁ができ、ぶつかり合うわけです。しかし、そうではない出会い方があるということですね。そのためには、正面から向き合うのではなく、自分の後ろを意識し、相手の後ろも意識し、相手に触れる必要があるわけです。
それは結局、死という回路を通してから、再び相手に出会うというような、より深い出会い方ということが言えるのかもしれません。
相手の方と目と目で見つめ合いながら、たくさんの顔が見えました。おそらく時空を超えて、意味のある顔が見えていたのかもしれません。終わった後も、ずっと温かい心地よさが残っています。
この経験が、踊りの中で、生活の中で、どのように生きてくるのか、また新たな発見がありそうで、なんだか楽しみです。
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