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新海誠監督の「天気の子」についてあらためて振り返ってみた

巷では、新海誠監督の新しい映画「すずめの戸締まり」が封切りとなったようで、すでに見てきたという人の感想が流れてきました。

それに先立って、前作、前前作、前前前作である作品たちがアマゾンプライムで無料公開されていたので、それらを見たりもしました。

そして3年前に「天気の子」を見た時に、その感想をFacebookにアップしたことを思い出したので、探してみたら出てきました。

これです。

天気の子をアマテラスに喩え、天津神の時代の終わりにつなげた考察をしていて、今読んでもなかなかに意味のある考察だったのではないかと思います。

ちょっと長いですが、全部引用します。

「天気の子」を昨日見てきたわけですが、この映画、思った以上に意味が深いということを感じています。今から書くことはある程度ネタバレを含むので、まだ映画を見ていない人は気をつけてくださいね。

100%の晴れ女は明らかに巫女なわけですが、アマテラスオオミカミを彷彿とさせます。その巫女である陽菜が人柱となり、彼岸に消えた後、帆高がその陽菜を探しに彼岸に赴き、人柱となることをキャンセルして、二人でこの世界に舞い戻るわけです。

さっき天皇について調べていて、はたと気づいてしまったのですが、天皇の役割は祭祀ですね。日本のためにいや世界の民の平安のために、日々祈るということが天皇の役割なわけです。そしてその先祖にアマテラスオオミカミがおられます。とても構図が似ています。

陽菜はみなのために晴れることを祈り、自らは人身御供として消えていくことを選んだわけです。そしてそれはたぶん長い歴史の中で世襲されてきた役割だったであろうと想像できます。

しかしそれを変えたのが、帆高の思いです。帆高はどうしても陽菜に会いたくて、自分の思いを強く信じて、たくさんの障害を乗り越えて、彼岸に赴き、陽菜を連れて帰ってきます。イザナミを連れ帰ることに成功したイザナギとも言えますね。

しかしその結果、雨は降り続くことになり、世界の形は変えられたということになりますが、実はもっと深いところでは何千年と続いた天津神の時代を国津神の時代に変えたということかもしれません。

誰かの犠牲のもとに維持される時代ではなく、みなのために誰かが我慢する時代ではなく、ひとりひとり、みなが内から湧き上がるエネルギーを信頼して個を生きる時代だよというメッセージを僕は受け取りました。

ヌーソロジーの中で2013年から、時代は調整期から覚醒期に移行したたのだと言います。それは天津神から国津神への国譲りでもあるわけです。

そうなのだとしたら、天皇というものは緩やかにその存在の意味を変えていくかもしれません。そんな風に思っていたら、皇室の方々が一番大変な思いをされているのではないか、もしかしたら、天皇という縛りがなくなって、一番解放されるのは当の皇族の方々かも知れない、そんなことも思ったのでした。

誰かに代わりに祈ってもらう時代ではなく、個々人がみな自己責任において、祈る(意乗る)べき時代ということかもしれませんね。

そんなこと、新海監督が意図していたかどうかはわかりませんが、僕の中ではすごくしっくりとつながった感じになっています。

ポイントとなるのは、天気の子の陽菜が晴天を祈ることで、社会は救われるけれども、本人は人身御供となるということです。

社会が維持され、皆が喜ぶから、そしてそれが長く続いてきたシステムだったわけですが、それを変えたのが穂高の思いでした。

このあたりは黄泉の国に行ってしまったイザナミを探して追いかけたイザナギを思い起こさせてくれます。しかし伝えられている神話では、イザナギはイザナミを取り戻すことはできません。

そして逃げ帰ったイザナギが一人で産んだのがアマテラスで、それが陽菜の原型であると思われます。そしてスタートした天津国の支配する社会が今に至るということです。

そう考えるとこの映画はとても意味深いと思えてしまいました。

その上での新作「すずめの戸締り」ということなので、やはり近いうちに見てきたいと思います。

どんな展開があるのか、おそらく続きものとしての伏線回収的なものもあるのではないかと思うので、そういうことも含めて楽しみにしています。

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