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他者と出会うということ

昨日は床稽古のことを中心に書きましたが、今日は「他者と向き合い、他者と出会うための稽古について書きます。

そもそも他者とは何かというところから、マルティン•ブーバーの「永遠の汝」の話から始まりました。「我-それ」としての他者と、「我-汝」としての他者の間には大きな違いがあるということです。

「我-それ」として他者と向き合うということは、他者はモノであり、利用し消費するものであり、代替可能なものであり、そこに霊的な個的な「存在」としての尊重がないということだと思います。「それ」は番号が振られ、記号に置き換えられ、義務としての役割を課して、役に立たなければ捨てられるわけです。

多かれ少なかれ、無意識のうちに他者に対してそのようなスタンスで向き合うということはあると思います。社会はますます「我-それ」の方向にシフトしてきていますし、自分自身が物のように粗雑に扱われたというようなことは、誰しもが経験したことがあるのではないかと思います。

だからこそ、他者と向き合うことは、危険なことであり、「それ」として利用され、虐待され、乱用されるリスクを知っているからこそ、人と向き合うことが怖いし、他者との関係はギクシャクしたものにならざるを得ないということだと思います。

そのような状態ではけっして他者とは出会えないということですね。

どうすれば他者と出会うことが可能になるのか? それは「我-汝」の関係性に向けてお互いが成熟していく必要があるわけですが、この稽古の中では、関係性を構造として捉えるところから、何が起こるか見てみようというスタンスがあり、そこがユニークだったと思います。

そのためにまず、お互いに向かい合って立ちながら、目を閉じて、上を感じます。どんどん上への広がりを感じ、そこに無限の広がりがあることを感じてみます。そして次に下を感じ、そちら側にも無限を感じます。前、後ろ、それぞれの方向にも無限の広がりを感じ、無限の空間の中に浮いていると感じられるようになってから、目を開きます。

そうすると先ほどまでの感覚と変化があり、向き合った相手に対する見え方も感じ方も変わっています。

自分の位置によって、他者に対する見え方も変わるということですね。自分自身に無限性が備わった時には、向き合う他者が「それ」には見えなくなり、もう一人の存在者としての「汝」の姿が初めて見え始めるということなのでしょう。

そのような見え方に変化したことを感じながら、他者に少しずつ近づいていくわけですが、ある程度の距離になった時に、突然お互いが重なって存在しているということを感じる領域に入り、そこから先は明らかに特別な空間だったと思います。

相手の方の顔を見ていると、やがて若い頃の母がそこにいて驚きました。たしかにそれは母ではないと知っているのですが、その人を通して僕にとって必要なことが起こっているのだろうと思いました。その変化はとても自然で、温かくて、厳粛な空気があって、とてもありがたく思いました。

そこで掌(たなごころ)を意識しながらお互いの手を触れ合わせましたが、それは永遠に続いてほしいと感じるほどの至福感でありました。肌面の細かさを感じ、濃厚な粘り気を感じ、受け入れてもらえたこと、尊重してもらえたことに対する喜びと、ここで出会えたことに対する感謝がありました。

やがてすれ違って反対側まで歩を進めましたが、二人で行った所作(儀式)の余韻が大きくて、ずっとその余韻に想いを馳せながら進んでいるような感じでした。

振り返り、再び向き合った時には、より親密な関係に深化したということを感じました。

最初に上下、前後に無限の空間をイメージ化したことで、向かい合う関係性がスムーズに進んだということはあると思います。

そのような手続きを経ずに同じことをしたならば、もっとギクシャクしただろうし、普段日常の社会の中では、そのようなギクシャクした関係性の方が普通であり、だからこそ「我-それ」の関係性が当たり前ということは言えるかもしれません。

「我-それ」から「我-汝」の関係性に進むということは、やはり空間の構造を理解し、個人として、ひとりひとりが超えていく必要があるということであり、それは同時に成熟ということにも通じるのだと思います。

そういう意味では、踊る時には「我-汝」の意識でなければ、舞踏意識にはならないとも言えるでしょう。逆を言うならば、そのような舞踏意識になって踊る時には、必ず「他者」が現れると言うことでもあるように思いました。

この動画は桜に出会って舞踏意識に入った愚者の舞です。この時もきっと「他者」が見ていたんだろうと思うと、今さらながら鳥肌が立ちそうな思いです。よかったら、見てみてください。

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