満ち溢れるものによって表現したい、自分の中に太陽の力がある
数日前の最上さんのツイートが上がってきて、心に響いてきた。
特に「満ち溢れるものによって表現したい」という言葉。そして「自分の中に太陽の力がある」という言葉。これはとても重要なところだと思う。
「風の遺言」の中で市川雅氏が、土方巽が衰弱体を発見したと言っていた。それ自体はよきことだったと思うけれど、いつまでもそれに拘泥して、それが鎧のようになってしまった暗黒舞踏というものが、僕は嫌いだったのだと合点がいった。
だからこそ、満ち溢れるものによって表現したいという人がいて本当によかったと思う。
今から思えば、最初に師事したTKも暗黒嫌いだった。彼女なりに舞踏の限界を見て、バリの踊りを始めたのだと、バリの踊りの中には私がやりたいと思うものが全て入っているからと言っていた。
たぶんそれは、「満ち溢れる」に通じることで、衰弱や欠落を内側から整えて癒してしまうだけの力がバリの踊りにあるということだったと思う。
歩行を繰り返すことで、軸がクリアになり、さらに軸が明確に柔軟になるほどに、歪みがなくなっていくということも同じことだと思う。
そして、歪みが取れるほどに、軸が立つほどに、太陽が顔を出すようになるのではないか。
そうであれば、身体に取り組むということは、岩戸を開くことに相違ない。
暗黒に蠢く自己を発見することは、大事なことだ。なぜならまずはそれを発見して、受け入れないと何も始まらないから。それはスタートとしては悪くはない。というよりむしろ必然だとも言える。
しかし、いつまでも暗黒の中で蠢いているのは、違うということだと思う。
鍵になるのは、内発性なのだ。外から動きを作るのではなく、内発をどれだけ信頼し、そこから始められるか。大事なのはほんの微かな振動にも気づける感性を磨くことだ。
そこから始まって動きが生じる場合は空間自体が本当に変容を始めるのがわかるはずだ。そしてその内発の衝動が方向を教えてくれる。舞踏における方向性とは、けっして言葉ではない。概念でもない。それは現場に出て初めてわかるものなのだと思う。
そしてそこを垣間見た人はアムリタを経験するはず。そこに入ったことのある人は、その気持ちよさが絶対に忘れられなくなるはずだ。そのくらいに強烈な至福感に包まれる。
しかし多くは、それができないから、形に頼る。どう見えているかを気にする。暗黒が頼るのは衰弱体という形というのが多いような気がするのだけれど、とにかくそこに頼って、口を歪めてみたり、白目をむいてみたり、苦しそうに呻いてみたり、そうやって過去にうまくいった形で安心する。そしてどうだとばかりに見栄を切る。
しかし、それだけでは何も生み出さないんだよね。それは創造ではない。自由に踊れと大野一雄が言ったから、自由に踊るのだと言いながら、形から出れなくなっていることに気づけないというのは、不自由極まりないだろう。
内発の結果、口が歪んだり、白目になるのはいいのだけれど、形としてそれをやるのは違うということだ。
内発とは霊が動くということなのかも知れない。それは稀有なことで、いい加減な姿勢でいる時には起こらないのだと思う。
何かが起こった時には、言葉もなく、ただただ畏敬の念に圧倒される。その圧力にまだ耐えられない者は泣き崩れるしかないだろう。しかしその中でも立っていられるならば、それはとても神々しい姿として映るはずだ。
だんだんと整理されてきて、自分がどこでなにをしているのか、さらに言うなら自分が何者なのか、ようやくはっきりと見えてきたということかも知れない。
「われここにあり」というためには、我を吟味しないといけないということなのだと思う。