深化することで溶けて消える
数日前の最上さんのポストから始まって出てきた一連の言葉を整理して書き残しておこうと思います。
「より内部に入ることで癖を内側から溶かしてしまうこと」という言葉が響いた。
僕自身、深く身体に染み付いたバリ舞踏の動きだから、完全になくなることはないにしても、原初舞踏の稽古を重ねたことで、何かが深化して変容してきたような気がしていて、特に今年になって確かに動きが変わり、体験も濃くなってきたように感じている。
深化することで溶けて消える。そしてそれはトラウマ的なものも同じというところ。そこから、今日のポストも味わい深い。
個人的な物語に拘泥することは、誰もが通るしそれは絶対に避けられないことだと思う。しかしこれもまた稽古して深化することでいつの間にか溶けて落ちていくことなのだろう。
精神世界でもスピリチュアルでも、まだまだ浅いから、「聖性」という言葉を使うのだろうと思う。そこに至って初めて舞踏は始まるということを特筆しておきたい。
トラウマもまた深化することでひとりでに解消していく。稽古はあくまでも舞踏のために行うということの意味もそこにあるということがあらためて腑に落ちる。
メンタルメソッドとして使えたとしても、根っこをいじり回すよりも、そこを突き抜けてもっと深いところを目指すということの方が、より根源的であり、本質的である。そしてそのプロセスこそに意味があるのだろう。
日常の中に隠れている差異に気づくことから舞踏が始まり、舞踏によって霊的空間が開かれていく。霊性が聖性の域に達するためには稽古の繰り返しと体験の反復が必要なのだろう。たまに訪れる恩寵のような体験もたぶん一里塚のようなものに過ぎない。このような差異と反復こそが生きる醍醐味ではないか。
思い返せば、バリの踊り(バリス、ジャウック、トペン、ガンブー、クビャールに至るまで)に明け暮れた日々というのも、ひとつひとつが意義ある一里塚だった。あの頃の狂おしいほどの情熱はそれが唯一の道と思ったからであり、たしかに意識を深化させ霊性に通じるような体験はあっただろうと思う。
しかしそれらすべてを封印して、12年間自然農、自然栽培に全力で取り組んだことも、やはり意味のあることだったのだと思う。その上で今があるからこそ、今している体験は味わい深いものがある。そこからさらなる深化を企図することで、どこに向かうことになるのだろう。
いずれにしても、そのような道筋を原初舞踏が照らし出してくれているということは、道半ばで路頭に迷っていた者にとってはありがたいことこの上ない。
また、自分という存在、自分の内側から湧き上がってくるエネルギーを信頼できるようになることから、何が始まるのか、何が創造されてくるのか、怖さもあるけれど楽しみも半端ないのだ。