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来るべき、神が神を見る日のための道程

落合陽一氏&東浩紀氏の対談抜粋を見ましたが、思った以上にまともな話をしていて驚きました。

この中で重要だと思うのは、デジタルコンテンツが当たり前になったからこそ、デジタルでは満足できないことに、人間は気づき始めたということを語っていたことです。

たとえば本にしても、紙媒体としての本とコンテンツとしてのデジタル化された文字情報とは、まったく質の違う体験を、人間にもたらしているのではないかということです。

本屋で棚から本を選んで購入するということから始まり、その重たさや、紙の質、インクの匂いも含めて、紙の本から得られる情報量というものは、はるかにデジタルのそれとは違っているわけです。

LPレコードに針を落として聞く音楽と、CDでも違います。さらにはコンサート会場で聴くライブの音はもっと違いますね。

家でスマホやテレビモニターで見る映画と、大きな映画館に足を運んで見る映画体験もまったく違うわけです。

すべてデジタルで置き換えられるかと思いきや、絶対にデジタルでは満足できない領域というものがあるのだということに人間は気づいてしまったということ、そこにフォーカスして話が進んでいくところが面白かったです。

デジタル化で失われたものは体験と時間であるという東氏の指摘はまさに我が意を得たりという話でもあります。

時間を取り戻すというのは「生命」を取り戻すということです。だから、質量的体験こそ肝ということが言えるのではないかと思います。

舞踏や茶道の中に永遠を発見したいというのは、人間の持っている根源的な欲求で、そこにど真ん中から切り込もうとしているのがヌーソロジーと言えるでしょう。

そこにカタチがあり、高次元内部構造があり、その次元に参入することで人間は自分が何者なのかを知ることになるのだと思います。

この最上さんのツイートも同じことだと思ったので紹介しておきます。

いくら素晴らしいコンテンツを大量に消費しても人間は満足できないということですね。

能動的行為のためには、やはり質量が必要で、そこに身を投じ、自ら体験することを通してでないと自分を知ることはできないわけです。

まさに神が神を見るための道筋ということかな。そんなことを思います。

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