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ゼロから立ち上がるということ
昨日、河原で歩行の稽古をしながら、あれやこれやと浮かんできて、それをツイートしていたんだけど、それに呼応するかのような最上さんのツイートを読みながら、それまで整理できていなかったことが、だんだん整理できてきました。
Twitterありがたいです。
今日も歩行のひとり稽古をしながら、繰り返すことでできてくる軸の変化を感じながら、これもまた一回更地から始めるということの意味だなと思ったりもします。
それまで、バリの踊りと田んぼでかなりしっかりした体幹を作って来れていたと思うのですが、この2年半ほどの間にいろんなものを失ってしまったということを感じていました。太りましたしね。(笑)
僕が長いことやっていたのは神への奉納舞としてのバリ舞踏だったので、そういう意味で踊ることが苦しくなってしまったということはたしかにあったんですよね。
曖昧な古い概念としての神という事や、社会システムに対しても、一度決別して見直さないといけないという段階に来ていたんだと思います。そういう意味では、2015年にヌーソロジーに出会えたことはほんとうにラッキーなことだったと思います。
そこで、ヌーソロジーを通して、歴史をはじめから見直し、何が起こってきたのか、そして今はどういう時期なのかということに関しての、全体像を見ることができるようになってきたということですね。
そして、その上で原初舞踏との出会いは自分の個人的な歴史において、とてつもなくエネルギーを注いできた踊りということに関しても、単に生きるということにおいても、もう一度意味を見いだすきっかけになった感じがします。
大西淳のTwitterより
何かのために踊るとか、生きるとか、そういうものを全て壊して、更地にしないと始められなかったということ。それはタロットの「塔」が崩れないと「星」が見えないということと同じことなんだね。ゼロの身体から最低限の力で立ち上がる時に何が生まれてくるのか、それが最終構成ということかも。
「星」の先に「月」の門があって、そこをくぐり抜けると、ようやく「太陽」に至る。それが「アイオーン」に至る道筋ということ。だから「塔」が崩れる経験をするということは絶対に必要なことだったと言える。考えてみたら「塔」は落下、真っ逆さまに落下してすべてがゼロに帰するということだ。
そう考えると、落下から始まる床稽古ってすごいことなんだなとあらためて思う。すべての要素がその中に含まれているということだ。
以下、最上さんのTwitterより
舞踊は「何に向かって踊るのか」「どこに向かって歩いているのか」ということが一番基本になるテーマで、太古の昔からは世界的に「神に向かって踊る」のは当たり前だった。アジア圏の舞踊にはいまだにこれが色濃くある。現代の創作舞踊のお手本になってるのは西欧の舞台表現なので、 https://t.co/HN6hrbP0Ll
— 最上和子 12/4 映像/舞踏公演「妣が国」 (@walhallahlaw) February 14, 2023
最上和子
舞踊は「何に向かって踊るのか」「どこに向かって歩いているのか」ということが一番基本になるテーマで、太古の昔からは世界的に「神に向かって踊る」のは当たり前だった。アジア圏の舞踊にはいまだにこれが色濃くある。
現代の創作舞踊のお手本になってるのは西欧の舞台表現なので、それは人間中心主義で自我の踊りになっている。私は「神なき時代」を生きる現代の都市生活者として、伝統的な神に帰依するのでもなく、自我の踊りでもない道を歩いている。
おおげさに言えばそれは人類の歴史過程のすべてをゼロに差し戻す行為でもある。創作舞踊に必要なのは身体だけではなく、「思考」も絶対に必要になるのはこのためです。それはこの時代を生きる者の誠意として「新しい時代の神と共同体」を求めて内在世界を歩く長い長い旅なのです。
踊りにおける歩行は、ふだんの生活の中での歩行のように機能的な目的はないので、歩くことは「人として存在するとはどういうことか」という問いかけそのものになります。だから難しい。身体の技術だけではどうにもならない。思考と身体が一致する地平にまで至らなくてはならない。
舞踏において一歩踏み出すことが困難になるのはそのためです。身体の移動という重力との関係において立ち現れるものが、そのまま思考の問題となってきます。
1月終わりくらいに、ヌーソロジー的要素を含んだ占星術をやりたいと言った結果、ハードルを自らあげてしまった感があり、占星術的な展開がすこし手間取っています。そんな簡単にヌーソロジー的な要素を入れ込むなんてできませんね。(笑)
でもおかげさまでいろいろ発掘作業をしながら、今までよりもヌーソロジー的な星に対する見方が身近になってきました。そして、結局の所、何がしたいのかということを今は見つめていますね。
特に、1月末から、ずっとお休みだった原初舞踏の稽古に参加できるようになったので、そちらからのインプットとか気づきがとても大きくて、自分自身の生きる軸を見直しているというような感じがします。
最上さんにしても、半田さんにしても、言葉に強度があるヒトというのは、やはりそれなりに理由があるんだということを今は感じています。
最上さんの「私の身体史」というアマゾンで販売されている本を再読しながら、そして映像作品である「コロス」の中で語られている言葉を書き起こしながら、その言葉の強度というものに、ほんとに圧倒される感覚がありました。
逆をいうと、その強度を持たないものが、何を語ったとしても、あまりにも軽すぎるのだということも感じたのですね。
というわけで、もうしばらく自分を掘り下げながら、歩行を通して、床稽古を通して、自分の軸を再構築していきたいと思っています。そういう意味ではとてもいい感じです。
ただ、外に向けて動き出すのは、もう少し先かな。とは言え、3月中には動き出したいと思ってはいるんですけどね。(o^^o)