「たま」と床稽古の話。それと所作は自己他者の次元調整という話。
昨日の原初舞踏の稽古でやった、「たま」を作ってから、床稽古に入っていった時に起こったことは、なかなかすごかったので、そのことを書いてみよう思います。
手で気を集めて「たま」を作るというのは、かなり昔からやっていて、今でも思い出したかのように、しょっちゅうやるんだけど、その「たま」を稽古の中に取り入れると、驚くような何かが起こったという感じでした。
「たま」を身体の中に入れて、それをさらに床の方に下ろしていきながら、同時に落下していくのだけれど、「たま」を身体に入れるところから、すでに何かすごいことが始まりそうだという予感がしていました。
床の下の方に落ちていった「たま」はずっと存在していて、それは大地そのものだったし、そこから湧き上がる衝動のようなエネルギーが、また新たな「たま」を産み、その「たま」がさらに新たな衝動に繋がっていって、無意識に身体が動くという状態が長く続いたのでした。
手を少し動かすとそこに「たま」が生まれ、それらは必ず何かの動きを呼び起こしていくから、次々と「たま」に導かれながら動いてるような感じだったなと思います。
「我、ここにあり」でなく、まさに、「たま、ここにあり」じゃないかとうっすら思いながら動いていたのを覚えていて、「たま」は明らかに何かを表現したがってたという感じがします。
そして最後にはどうしても床に座りたくなって、そのまま足を広げて、これから出産するのかというくらいに呼吸も荒くなって、身体全体を連動させて、股間から「たま」を産み落とそうとしてるような感覚になって、自分でも「なんだこりゃ?」と思いながら動いていた感じだったんだけど、そこで時間が来て床稽古も終わったという感じでした。
それにしても、何が生まれようとしていたのか、それらが生まれたらどうなるのか、まだまだ続きがあるような感じもあって、この「たま」のワークはまたやりたいし、ぜひ続きを見てみたいなと思ったのでした。
今朝、目覚めてFBを見た時に、昔シェアした、この半田さんの投稿が目に入ってきて、こういうこともきっと「たま」と関係あるんだろうなあと思ったので、リンクを貼っておきます。
それと、今突然繋がってきたのは、最後の所作の稽古で、向かい合った人と目と目を合わせている時に、肉体は共に三次元の時空の中に存在しているけれど、意識というものは、自分も「無限遠点」におり、目の前の人も「無限遠点」にいるのだと思った途端に、時間がなくなる瞬間があって、相手と自分が溶け合ったような感じになったのです。そして、特に後ろで繋がっているという感じもしました。
そこでそのように出会うということが、あの稽古の肝なのかもしれないなと、今になって思います。「触れる」ということは、本当はそこまで深い交流なのでしょう。
最後に振り返って再び向かい合った時には、そこにいたのはとてもなつかしい人であり、またそれはかつての自分でもあったというような感じがして、不思議でした。
よくよく考えたらそこに「私」「あなた」というような感覚はなくなりかけていて、もしかしたら「君と君の君」という位置にかなり近づいたのかもしれないなと思ったりもしました。
最上さんが、「所作というのは、自己と他者の次元調整をするためのものだと思う。」と言われていたのが、これまた今更ながらに腑に落ちてきます。
それと、無限遠点で人と出会うためには、じゅうぶんに熟成された魂が必要なのだろうと思いました。人をもののようにさわり、扱うような意識ではその位置には出れないということですね。
だからこそ、すべてはその位置に出るための前振りみたいなものだったのかという感じで、人間のさまざまな道程、歴史というものを眺めてみると、突然宇宙の真髄に触れたように感じました。
人と出会うことで人は磨かれ、成長の機会も得るわけです。自分が充分でなければ、その相手との関係で必ず「我-それ」問題が出てくるから、それを見ることができれば、今の自分の熟成度合いを知ることができるわけです。
ある意味、これも玉磨きに通じることなのかもしれないなと思ったら、なぜ床稽古で「たま」を作ってから始めたのかということにも意味はあったのかもしれないよね。というか、必然ということなのかもしれません。
でもそういうような意図は一切なく、いつもなんとなくメニューを決める最上さんという存在は、ほんと面白いと思います。
そこで起こること、場の空気がどんどん濃密になっていくところ。。。このところその度合いがより強くなって、拍車がかかってるような気がするから不思議です。
何かの実験の場であることは間違いないという感じがします。たぶん、宇宙で最先端の実験の場であり、変人の遊び場なのでしょう。(笑)
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