初夢と狭き門
先程、坂爪圭吾さんのこちらの記事を読んでいたら、突然に今年の初夢(1月1日の夜に見たもの)のことを思い出しました。
坂爪さんの記事は削除されてしまって今は見れませんが、その記事というのは、千利休の茶室の出入り口(60センチ四方)が、聖書の狭き門から発想を得たものであるというようなところから始まる話でした。
実際ググって調べてみると、サイズは60センチ四方で躙口(にじりぐち)というのだそうです。聖なる茶室に入るためには俗世の垢は持ち込めないというような意味ですが、たしかに聖書的な狭き門の意味と通じるところがありますね。
たしかに、利休七哲(利休の7人の弟子)の一人であった高山右近という大名はキリシタン大名として、後に国外追放されていますし、千利休がキリスト教から着想を得ていたとしても、何らおかしくはないと思われます。歴史的にも、時代的にも、じゅうぶんその可能性はあると思いました。
そして、夢というのはこんな感じです。
かなり長いので一部端折りました。
それでもじゅうぶん長いです。
この夢、目覚めた時にスマホに書き残してそのままにしていました。それが、坂爪さんの上の記事を読んで、この夢って狭き門じゃないかと思ったわけです。
今、夢を振り返ってみると、意味深な場面がたくさんあります。
最初の電車の路線と次に乗り換えた路線は直交しています。最初の路線は新しい技術で見え方が変化していて、森の中を走りますが、人工物がいっさい見えません。それに直交した路線では普通の街並み、人工物が見えています。
この直交は複素平面の虚軸と実軸を示唆しているように思えてきました。実軸は見えますが、虚軸は見えませんからね。その違いを比較するために検証動画まで撮ろうとしているという夢でした。
ちなみに、僕の中では虚軸が小田急線で、実軸がJR南武線というイメージでした。新宿方面から小田急線に乗ってきて、乗り換えたのは登戸ですね。それから立川方面に向かい、途中で降りて川沿いを歩いたようです。
そして、狭き門を彷彿とさせるアパートの入り口。その前には石を投げられている男がいますが、この流れだと、彼はイエスなのかもしれません。
ちなみに夢の中の狭き門は45センチ四方くらいでした。茶室の躙り口は60センチ四方ですから、それよりも狭かったんですよね。肩をすぼめて小さくなれば通れると思いますが、さすがに毎日何度も通るようなものではないかも知れません。(笑)
そう言えば年末に、位置の交換について書いた時に、神一厘の仕組みというような、日月神示の言葉にも思いを馳せたことを思い出しました。
一厘とは0.1%ですから、内面を出て外面に出ることがそうであるとするならば、それはやはり狭き門を彷彿とさせます。
何度もそこを出入りするのは大変だということで、今の所に引っ越してきたということに夢の中ではなってましたから、両生類のように何度もそこを出たり入ったりするという想定なのかもしれません。
虚軸=外面、実軸=内面ということで、そこを行ったり来たりするということを示唆した夢という風に読み取れて、今更ながら「おおお!」と叫びそうになりました。
待たされて透明な靴が出てくるところとかも、何か意味深ですが、何よりバリのカインを腰に巻いて歩いているというのは、いきなり過ぎて意味不明です。(笑)
そして最後の方では化粧したまま舞台の余韻に浸っているという風景で、なんだか踊っていた頃のことを懐かしく思い出しました。楽屋というのはたしかにちょっとしたカオスですから、多少時空がゆがんでいても不思議ではありませんからね。(笑)
そうそう、最後に狭き門と言えば、アンドレ・ジッドの「狭き門」を思い出します。18~9才の頃、友達と話しているときに、理想の女性像は誰と言う話になったときに、僕が必ずあげていたのが、「狭き門」のヒロインであるアリサと言う女性でした。今から思えばあまりに青臭い話なのですが、何かそこには大事な意味があったのだと思います。今ではなつかしい思い出ですね。
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