3次元と4次元と時間と持続
最近、なるほどと思ったこと。
そもそも三次元とは錯覚、瞬間、刹那であり、見えない世界、概念にすぎない、ということ。
これってすごいことなんだと思います。
存在は三次元にはありえないということです。
次元について、少し考察してみます。
0次元 点
1次元 線
2次元 面
3次元 立体
こんな風に次元が進んでいきますが、普通は3次元の立体ができたところで存在するようになると言われています。
しかし、それも間違っているよということなんです。
それは3次元においては空間性だけで、時間性がないということであり、まさに瞬時に消える(瞬間性)ということから実在にはなり得ません。
そう、時間性がないと存在はあり得ないわけです。
そのことを問題にして哲学したのが、「存在と時間」のハイデガーであり、「物質と記憶」のベルクソンということになり、そこで鍵になるのは、4次元であり、時間性ということになります。
ここで、さらに整理していくと、時間には二つあります。
それは持続と時間です。
持続 ずっといるのが存在
ベルクソン的時間
流れない時間であり、生きる時間であり、
存在とは生きる履歴のことである。
時間 時空における時間
アインシュタイン的時間
流れる時間であり、概念としての時間であり、
パラパラ漫画の様な刹那になってしまう→空、無
と言うわけで、
持続のあるものが本物
持続のないものが偽物
ということができそうです。
本物というのは命があるものということであり、そこにはクオリアがあります。実体があるとも言えます。
それに対して、偽物というのは、情報であり、データであり、幻であり、命がないものだということになります。だから、一見生きているように見えても、こちらに由来する物の本質は空であり、無ということになりますね。
よく、非二元の方がいう「すべては無」というのは、こちらの偽物の方を垣間見たのではないかと思われます。たしかにそれを見たという経験は間違いないと思いますが、そこは生命のない世界ですから、当然そうなるのかなと思います。
持続は記憶であり、履歴であり、そこに生命が宿っているので、トーテムポールのようにルーツを辿ることができるわけです。そちらの方向に意識を繋いでいくならば、無ではなく、有を見いだすことになると思われます。
その持続がわれわれの記憶であり、プランクスケールに畳み込まれて、奥行きとして目の前に現われているという感覚は、夢を見ているとか、瞑想しているときとか、いわゆる時間がないと感じるときに見える目の前の世界のことを指しているのではないかと思われます。
そしてそのような視点を持てているとき、そういう意識状態のときには、意識は3次元ではなく4次元の位置にいるということになるわけです。
そこにある絶対的差異がわかるようになるということが、とても大事なことな訳ですね。
その時に大事なことは、自分が脳の中にいるという感覚から離れることです。実際、目の前の奥行きに持続があり、そこに記憶の履歴があるのだとしたら、そちらの側にこそ、自分の主体があるということになります。
そう、前に主体があるという事ですね。むしろ脳や身体の方が客体なのです。そのような感覚が持てるようになると、驚くべき変化が起こり始めるでしょう。グラウンディングする感覚がまったく変わりますし、時間に追い立てられるような感覚がなくなり至福と言ってもいいような感覚を感じると思います。
ものの側に主体があり、今まで主体であると思っていた脳や身体の位置が客体であるということが体感できるようになってくると、世界は大きく変わると思われます。
時代的にも切羽詰まってきてる感じがありますし、外を変えようとしても他者依存と分離が強くなるだけですし、自分の位置について、3次元と4次元の違いについて、時間と持続の違いについて、理解していくことは大事なことだと思います。
なんか、思い立って、何の計画もなく、こんなこと書いてますが、まぁ、いいでしょう。こうして書いて、言葉にすることで、自分の中での整理もできてきますしね。(o^^o)
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