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月は欠損について その2

2年ぶりにマドモアゼル愛さんの、月に関する動画をいくつか見てみました。この問題については、かねてよりいろいろ考えているのですが、この動画を見て、やはり月は欠損という表現は行き過ぎで間違っているのではないかと思いました。

ただ、その中には使えるところもあると感じているので、そのあたり、ダメだと思うところと、いいと思うところについて、考察した上で、自分なりの考え方、提案をしたいと思って、これを書いています。

未熟な月

事実として、月はたしかに未熟であることが多いので、トラウマの引き金となることもあります。

そして、その月のいるサインの示す分野に関して、上手にできなかったり、こだわりすぎたり、トラブルの原因になってしまう可能性もあるでしょう。

しかし、欠損というのはやはり言い過ぎであり、間違いだと思います。未熟と欠損とは、まるで意味合いが違います。

おかしいなと思う点

この動画の中で、月がなければ、動物と同じように素直に生きられるとおっしゃっていますが、そもそも月がなければ生命は生まれませんし、存在もできませんから、論理的にも破綻していると思います。月はそんな安易に語れるようなしろものではないと僕は思っています。

ただ、月がトラウマの引き金になるということはたしかにあるので、スイッチが入るたびに、適切なケアをして、月に押し込められたネガティブな感情を解放してあげる必要はあると思います。

その方法論として、月が執着するものから一度離れて、反対の視点から眺め直すということも、たしかに役に立つ方法と言えるだろうと思います。

月の欠損理論に助けられたという人

ネットの中を徘徊していて、月の欠損理論に助けられた、これを知って楽になったという人がとてもたくさんおられるのを発見しました。

こんなに支持する人がたくさんおられるということは、このプロセスのどこかに、ネガティヴィティ解放に結びつくような画期的な視点、ノウハウがあるのだろうと思います。

そういう意味で、月のいるサインとは対向する、反対側のサインに注目して、そちらを頑張ることで、月のネガティヴィティを解消するという方法は、理にかなっているのだろうと思うのです。

反対方向からアプローチすることで、月の持つトラウマ的な感情の沼から脱出して、整理しなおして、クリアにすることができるということは、実際にあり得ると思います。その中で自我の成熟というプロセスも起こるでしょう。

繰り返しになりますが、方法論としては有効なところがあると思うのです。この良い部分については、ちゃんと評価する姿勢でいることも、大事だと思っています。

しかし、それはあくまでも、月が未熟だからなのであって、欠損とまで言ってしまうのは、さすがにミスリードだと思います。せっかく良いところもあるのに、欠損という否定的なワードで決めつけていることに、危惧を感じるので、この問題を僕はしつこく追いかけてるんでしょうね。

否定でも肯定でもない、等化という方向性

見渡してみて、そのあたりの構造的なところをしっかり理解している人がとても少ないということを感じるんですよね。

だいたいは、この問題については、否定派か肯定派かに分かれてしまっていて、問題の本質を語っている人がまだあまりいないように感じています。

そんな中で、先日このスタンスなら、理解できると思う方の月欠損に関しての記事を見つけました。

その中では、月の欠損というより、月の反応というような表現の方が良いのではないかと、提案もされていて、それなら理解できるところもあると思いました。

そしてその方の記事を軸にして書いてみたのが、こちらの記事です。


危惧するところ

愛さんは別の動画で、地球平面説であるとか、月空洞説の話をされていますが、このあたり、ちょっと気をつけないといけないトリックに引っかかっておられるのではないかという懸念も抱いています。

ネガティヴなものを、否定することで解決する、という姿勢を感じるんですよね。欠損であるから、月は否定すべきという姿勢は、悪を駆逐すれば、世界は良くなるという発想に似ています。

しかし、愛さんの欠損理論は、トラウマ的な事象が大きくて、なかなか問題を解決できなかった人にとっては朗報と感じた人が多いのだろうと推察します。

それはたしかにあると思うんですよね。今という時代にこれだけ受け入れられているというのは、そこに革新的な有意義な提案があったからなのだと思うのです。そういう意味では僕はすべてを否定しているのではありません。むしろ、いいところを生かしたいが故に、行き過ぎた所に対しての提案をしたいと思っています。

月のネガティヴィティ

僕も長いこと、キネシオロジーのセッションを提供してきましたから、まさに月のネガティヴィティには向き合ってきたわけです。

その経験から言えることとして、月はとても大事です。月を欠損として切り捨てるだけでは、問題を先送りするだけというような要素があると思うのです。

そこには男性性の強さが垣間見えていて、その場合は必ず麻痺があります。なので、そのスタンスでは本質には至れないので、後から副作用のような問題が出てきてもおかしくありません。

もっとも、一度に完全にクリアすることはむずかしいので、少しずつでいいとは思いますが、できるならば、構造的に正しい理解をしていた方が、スムーズに物事は進むのではないかと思うんですよね。やはり、欠損というのは否定の度合いが強すぎると思うのです。

月は、ただ見えている部分が未熟なだけなので、月を愛でつつ、トータルとして成長する方法を見出していけば良いのではないかと思うのです。

だから、僕の立場として、もったいないというのが正直な気持ちです。

素材として、方法論として、とても良いものを含み持っていると思うだけに、もっと建設的にこの問題ついての理解が広がったらいいのになと思うのです。

この問題、もう少し煮詰めてエッセンスを抽出したいですね。否定でも肯定でもない、等化という方向性を探ることで、みなの意識の次元が上がるきっかけになるのではないかと思ったりもしています。

月についてのメモ

こちらは、Facebookの投稿に対して、いただいたコメントを見ながら、自分の整理のために書いたメモですが、これもそのままこちらに転載しておこうと思います。

月は見えないところ、無意識、潜在意識も司っている。幼年期だけが月ではない。ツクヨミが表に出てこないことの意味。月の公転周期と自転周期が同じであり、月は表側しか地球に見せていないことの意味。

人生は太陽だけではない。10天体と恒星、小惑星も含めたすべてが人生に関与している。その中でも月はルーツに当たる。

月は見えないところを司っている。これは見えるところがすべてではないということでもある。一見、役に立たないから、切り捨てるというのは間違っている。

これについては、かっこちゃんの「四分の一の奇跡」を参照。

月を切り捨てた上での成功はあくまでも左脳的な範囲での成功だと思われる。もちろん、それも現世的には間違いではない。ただ、それはトータルなものではなく、幅的なものであり、あくまでもプロセスの途中ということ。

月の役割は現世的なものだけではない。現世的に役に立っていないから、邪魔だという見立ては、男性性的な発想。

歴史的に月に対しての偏見は男性が作り出してきた。男性性が女性性を怖がり、魔女を弾圧してきたという歴史を忘れてはいけない。イザナミを貶める発想と月を欠損と断定する意識とは似ているところがある。

月は左脳的な意識を超えたところで、生をサポートしてくれているので、それを忘れてはいけないということ。

だから、欠損という言葉を使うことは、やめた方が良いと思うというのが、僕からの提案。現世的な基準からすれば未熟、という表現で良いのではないだろうか。

しかし、本当は月のポテンシャルはそんなものではない。見えないところで多大な貢献をしていることを忘れてはいけない。

月の未熟さ由来のネガティヴィティで問題が起こるときに、月にこだわると泥沼にハマるという見立ては、たしかにその通り。そこからの脱出方法がわからなかった人にとって、月があるサインの反対側にあるサインを頑張ってみるということは、とてもよい方法論だと思う。

月のポテンシャル

月の意味が本当にわかってくると、月のポテンシャルを使えるようになる。そこにこそ人類進化の鍵が隠されているということ。

月にはまりすぎず、太陽を使い、火星を使い、宇宙の意識に進んでいくというのが、人間の成長プロセスと言えるかも知れない。

だから、月でつまずいたままという状態から脱出しようという意識は必要。そのときに月の反対側をやるという方法は初動の振る舞いとしては適している。

だから、愛さんが言われていることのだいたいの部分は、必然的に出てきたものなんじゃないかなとも思っている。月の沼にハマっていては先がないということだからね。

しかし、常に月はフィードバックをくれるものなので、とても大事だということは忘れてはいけないことだと思うんだよね。月が普段見せてくれていない側に、大事なエッセンスがあるということ。

最後に

ちょっと、とりとめなくなってしまいました。書いてから、少し時間をおいて、さらに加筆したのでちょっと散漫になってしまったかな。しかし、新たに書き直す気にはなれないので、これで行こうと思います。

また少し時間をおいて、整理できたら、もっとわかりやすく書けるかも知れません。こういう考えるという行為は、一度形にしてみることが大事だなと思うようになりました。形にすることで、整理できて、さらにその先の領域に進むことができるという感じですね。

その都度、スタンスを見直しながら、人は成長していくのだと思います。恐れずに、自分の感じたこと、自分の考えたことをアウトプットするということは、他ならぬ自分のためだということを思います。

こういうことを考えて、書いていること自体、月牡牛座の僕にとっては、反対サイン(蠍座)をがんばっているという事なのかも知れません。これぞというテーマに関しては、掘り進める感じですね。

アセンダントが蠍座で、牡牛座月のオポジションの位置に蠍座海王星があり、それに獅子座水星を加えてTスクエアを作っているので、こういうことを考えて、文章化して、アウトプットするという行為は、僕にとってはとても自然な流れではあり、そういう星を持っているということはラッキーなことなのかなとも思います。

しかし、反対側に要素がない人にとっては、月の反対側をやるということ自体、なかなか思いつかないでしょうし、大変なことかも知れないと思います。そういう人に対してのショック療法としての月欠損ということもあったのかなとは思います。

欠損という言葉の是非、月のポテンシャルに対しての再確認、そのあたり、もうちょっと整理できたらいいなと思っています。

だいたい、言いたいことは書けたので、とりあえず、これでアップします。そして、しばらく熟成させて何が出てくるか待ってみようと思います。(^^)

こちら、その3です。↓


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