北海道旅行〜札幌・寺山修司資料館
サンサンとかいう台風の影響で、当初の予定をずらして北海道へと向かった。幸い、暴風雨に見舞われることもなく、飛行機や電車も通常通り運行し、無事に北の街へと辿り着いた。
旅の第一の目的は、札幌の寺山修司資料館である。地下鉄発寒南駅からタクシーで5分ほど、川べりに佇む小さなギャラリー。ここには、寺山修司の友人である山形健次郎氏が収集した、寺山からの書簡・天井棧敷のポスター・関連書籍・映像作品などが数多く展示されている。
青森高校時代、寺山は「老人の玩具から不条理な小市民たちの信仰にかわりつつあった俳句に若さの権利を主張」すべく、十代の俳句同人誌『牧羊神』を創刊した。寺山は、『螢雪時代』俳句投稿欄入選者の常連で、北海道・滝川東高校に通う山形健次郎にも声をかける。
寺山と山形、二人は俳句を通じて出会い、その交流は以後十年以上続いた。寺山から山形へ送られた手紙の数は、二百通を超えるという。
「寺山は父親がいなかったでしょう。僕も父親がいなくてね。だから淋しかったんじゃないかな。一日に朝と晩、二回手紙が来ることもあった」と山形氏は笑う。俳句をはじめとした文学談義や、学校生活、恋愛話に至るまで、寺山独特のクセ字でみっしりと綴られている。闘病中に送られた葉書の文字は、少し弱々しい。
「寺山は手紙を書くのが大好きだった。自分宛てにも書くぐらいだからね」
山形は高校卒業時に句集『銅像』を自費出版し、寺山が跋文「火を創る少年 山形健次郎へ」を寄せた。
その後、山形は法学の道へと進み、役人となる。資料館には、寺山と九條映子の結婚式の招待状や、寺山から山形へ宛てた「ゴケッコンハイツデスカ、オシエテクダサイ、テラヤマシュウジ」という電報なども展示されている。
寺山の死後、山形氏はかつての交流について沈黙せざるを得なかった。
「僕は役人になって、寺山はアングラでしょ。だから昔仲が良かった、なんて大っぴらには言えなかったんだよ」
山形氏が寺山について語り始めるようになったきっかけとなったのが、2002年に北海道立文学館で開かれた寺山修司展である。札幌大学学長・山口昌男の企画した本展に協賛し、氏が収集・保管してきた数々の資料が、札幌・ギャラリー山の手にて展示された。これを契機とし、膨大な資料の整理・公開が進められ、2019年5月4日、寺山修司資料館がオープンする。本館には、文学研究者の他にも若い寺山ファンが多く訪れるという。
今回は偶然、山形氏が館内にいらして、様々なお話を聴くことができた。
「寺山は酒も煙草も一切やらなかったけど、食べるのが好きでね。特に牛肉。そうそう、僕が東京に来たときに、“餃子”を指さして「おい、山形。これ、何て読むか分かるか。“ぎょうざ”って読むんだよ」とかね」と微笑ましいエピソードも。
自身の農園で栽培しているトマトジュースもいただいた。御年八十八歳、元気の秘訣は、このトマトジュースとこだわりのミネラル水だという。
「これも、寺山が結びつけてくれた縁だね」と山形氏が微笑む。忘れられない一日となった。