『オキシトシン』 エッセイ風短編小説



『オキシトシン』






じんわり、膨らんでいく温もり。

わたしの体温と、隣の体温が、空気を温めつつ混ざり合っていく。


まだ嗅ぎ慣れない匂いだ。

これから当たり前になっていく匂いなのだ、と……少し未来を想像して、うっかり口元が乱れた。




彼は、軟派なチャラ男だ。

八方美人で(優しくて)、おしゃべりで(明るいムードメーカーで)、ゆるゆるのマイペースで(少し冷めていて慎重で)、……わたしは密かに、「すごい生粋の天秤座だな」と頷いている。


そして、「あなたのことをもっと知りたい」と思っている。





オレンジ色の豆電球。


じんわり。

あたたかく膨らんだ空気に包まれた。

意外と静かな空間。


彼の呼吸が伝染してきて、楽になる。


そのまま、隣で、ただ眠る。






青白いLEDライトの下。


わたしの日課は、足のマッサージ。

じっと見ていた彼が、わたしの足に触れてくる。


まるで、絹ごし豆腐を触るように。

慎重な手つき。

まるで、宝物に笑いかけるように。

光を宿した手つき。


ハッとするほど、愛を感じる。

絶妙な圧。


「やーらかいな。」

「……そう?」


ずっと触っていてほしい。

もしそう言えば、あなたは呆れるだろうか。

それとも、もしかして照れたりするんだろうか。


「あったけぇな。」


永遠のような心地に浸る。

わたしは何も言わなかった。


嬉しいけれど、寂しくもあったから。


自分だけじゃ、こうも自分に愛おしさを抱けない……と思ってしまったから。


あなたがいないとダメだと思ったから。






暗闇。


じんわり。

あたたかく膨らんだ温度。


トン


肩と肩が触れ合った。

ふたまわりも大きな手が、わたしの腫れ上がった胸をそっと抑える。その思いやりに甘えて、ヒリヒリする赤い心を、初めて差し出した。


「もう何も考えないで。」


鼓膜を震わす低い声。


「俺だけを見てて。」


わたしにだけ少し特別に優しいあなた。


あなたの一途な火に、溶かされてしまう。

わたしの、凍えた自律心。







五感で、ありありと、イメージする。

まるで、本当に、そこに居るかのように。


イマジナリー彼氏。





*2話


淡い緑色のカーテン。


タレ目。

見れば見るほど、タレ目だ。

だからといって、柔らかい印象かといえば、そう単純でもない。

眉毛がキリッとしているせいかな。

その凛々しさと、目尻の甘やかさ……絶妙に兼ね備えている。


ウッカリ、手を伸ばした。

彼の眉毛。

「……え、なに。」

無心に、指でなぞる。

「……なにしてんの。」

「まゆげ、みてる。」

「え、はずいんだけど。」

「人間の神秘を感じる。」

「ちょ、まじ、やめてよ。」

「うん。」

「やめてよー。」

「うん。」

わたしは、艶やかな眉毛に夢中で、見逃した。あなたの赤くなっていく耳を。


「……仕返しだ!」


彼の指が、目前に迫る。

ギュッと目をつむった。

ふわり。

眉間に、羽にくすぐられるような感触。

眉毛をクリクリ撫でられている。

「や、やーだ、めっちゃはずい!」

彼の気持ちがよーく分かった。


眉毛なんて、ダメだ。

遠目から見て整ってたらいい部分。

間近で見んな、ばか。







空の白い光。


繋いだ手。

緩む歩調。


お互いの腕がこすれて、ちょっと近すぎる。


あなたは、甘やかし上手。

いや、意外と甘え上手なのかもしれない。


「今俺のこと考えてたっしょ。」

「……べつにぃ。」

「俺のこと考えろしぃ。」


ヘソを曲げたように、ぶつかってくるあなた。

拗ねているのか。

それとも、拗ねる演技をしているのか。

はたまた、本気で拗ねていることを隠すために、わざと拗ねる演技をしているのか。


どれもあり得そうで、底が知れない。


「なぁ、今何考えてんの?」

「……べつにぃ。」

「絶対俺のことじゃん。」

「べつにぃ!」







小さな星空の煌めき。


「なぁ。」

「なに?」

「なんでそんなに『ヒト』を避けるの?」

「人間が嫌いだから。」

「……俺のことは?」

「あなたは特別。」

「どうして俺だけ特別なの?」


「どうしてそんなひどいことを聞くの。」




……あとになって思えば、他愛ない会話だった。むしろ、「あなたは特別」という、とても素敵な話題だったかもしれない。


だけど、責められたように感じた。

暗に「人を好きになりなよ」って、叱られた気がした。


わたしがどうして人間を嫌いなのか、知らないくせに。


そう思ってしまった。






あなただけは、特別。

本当は居ないから。


イマジナリー彼氏だから。





藍色の遮光カーテン。


「俺、居るけど。」

「……居るね。」


彼は怒っていた。


「俺、エスパーじゃないからさ。言ってくんなきゃわかんねぇよ。」


こういうのが、嫌。


こういうのが嫌で、わたしは人を避けている。


仲直りの仕方なんて、知らない。

分かり合う方法なんて、知らない。


こんなのは喧嘩にも満たない行き違いだ。それは理解できる。もしも、わたしが普通の女だったら、……すぐ水に流せるのだろう。

そうして記憶の片隅に葬られる。

きっと明日には何事もなかったように『仲良し』に戻れるのだろう。


だけど、わたしは、そうじゃない……。


「俺が居るのに、他のこと考えないでよ。」

「自分のことを考えて何が悪いの。」

「そうやって一人だけで考えてんなよ。」

「あなたには関係ないじゃない。」

「……関係なくないだろ。」


わたしは、彼の怒りが増したのだと思った。

けれど、離れていくどころか、近づいてくる。


「どうしても話せねぇことなの?」

「……どうしてもじゃない。」


スパッと捨てられないことに、安堵した。


話すことは、きっとできる。

自分自身の中で整理し続けてきた感情だから。

とても深く時間をかけてきたことだから。


視線を上げれば、あなたは、なぜか笑っていた。

そして、パソコンを用意し始める。

「たぶん、この雰囲気で話したら、すっげぇシリアスになんじゃん。だから、カワイイ映画でも見ながら話そうぜ。」


建前の感情は、「優しいな」だった。

正直なところ、「バカっぽいな」と思ってしまった。

でも、そうしてヘンテコになった空気感は、悪くなかった。


わざわざ『劇場版ツブアンマン』を購入してくれている。

ダウンロードを待つ時間が、とても間の抜けたものになって、これから話すことがそんなに重たい過去じゃないような気がした。








流れてゆく雲。


手を繋いで歩く。

なにげない感じで、握り返した。

そして気づく。

あなたの手を、初めて握り返したことに。


「ねぇ、今、あなたのこと考えてる。」



わたしは、忘れることがないだろう。

このときの彼の表情を。







改造バイクが唸りを上げて通り過ぎる。

いい気分が台無しになった。


形を変えてゆく雲。

風に揺れる草の声。


「世界は、汚くて、うるさくて、身勝手で、……でも、美しいね。」


「俺も、そう思う。世界は、汚くて、うるさくて、身勝手で、……でも、美しい。」


小鳥のおしゃべり。

川のせせらぎ。


「なぁ、こういう気持ちをなんて言うか、知ってるか?」


「え?」


「汚くてうるさくて身勝手で、……でも、世界は美しい。こーゆー気持ちのコト。」


「この気持ちの、名前?」


「そう。」


「なに?」


「『世界を愛してる』って言うんだぜ。」


「……世界を愛してる……。」


「たとえ君が、『人間を愛せない』と思っていたとしても。」


「……。」


「ちゃんと世界を愛してるんだよ。」







もっと、一緒にいたい。

もっとさくさん、あなたと遊びたい。


あなたが居るだけで、それだけでいい。







ゴロゴロする午後。


「わたし、とても大事なことを思い出した。」

「え、なに?」

「あなた、7年前に死んでるの。」

「……おぉ?」


「……。」

「……。」


「あまり驚いてない?」

「いや、驚いてるよ。」

「そう?」

「……でも、なんも変わんねぇかな、って。」

「え?」

「俺は、イマジナリーだろうが、ユーレイだろうが、君の彼氏だから。」


奇妙なはずなのに、嘘はどこにもなかった。


「だからさ、なんも変わんねぇかな、って。」

「たくましいね。」

「褒めてもらえてうれしい。」


じゃれてくる彼の頭を撫でまわす。


わたしたちは、笑った。




*3話





満月だったのかもしれない。


背中のニキビを、うっかり引っ掻いてしまった。

鏡の前で身体をよじる。

まあまあの血が出てしまった。


「ねぇ、絆創膏貼って。」

「うーん。」

「背中の、ココ。」

「うーん。……ごめん、無理。」

「だよねぇ。」


それから、しばらく、彼とは会わなかった。









「えー、まぢチョーえらい~!」


すごいギャルみたいな褒め方してくる。


「え、待って、ねぇココア作ってあげるぅ。」


突然現れた彼。

ひたすら褒めてくれる。


事の始まりは、ついさっき。

わたしは、悩みや不安や、過去の傷に引きずられてしまうことが多い。今目の前では何も起きていないのに、頭が余計なことを考えて、身体が反応して、静かにツラくなってしまうことが多い。


でも、『どうすれば引きずられないか』を、たくさんたくさん試して、生きる術を身に付けてきた。

だから、今朝も『ゆっくりストレッチ』してみたり、『広い広い銀河をイメージして自分の存在の小ささを感じる』ことをしてみたり、『深呼吸しながら気を丹田に下ろす』ことをしてみたり、……とにかく色んな対処法を総動員して、自分を落ち着かせていた。


そしたら、ギャルみたいなテンションの彼氏が現れた。


「ねー、まぢスゴイじゃん!」


ありがとう。

……あのね、こういう自己トレーニングって、孤独で、……なんで自分だけこんなことしなきゃいけないんだろうって卑屈になってしまうことがある。

でも、実は、自分だけがこんなに頑張ってるわけじゃないんだ。本当は、こういう地道な生きる努力って、今日もどこかでたくさんの仲間たちがやってる。わたしもその一人なんだって、ちゃんとわかってる。


……まぁ、そういう仲間たちの声は、遠いからお互いにあまり届かない。……それは少し寂しい。


だから、身近にこうして褒めてくれる人が居ると、とても安心するよ。


「まぢチョーえらいんですケド~!」


「ありがと。」



わたし、結構えらいよね。



「今日はココア飲んでゆっくりしよ。」

「うん。」

「もう何もしなくていいから。」

「うん。」

「俺が居るから。」

「うん。」

「おいで。」




あなたは、やっぱり、頼りになる。


「俺のことだけ考えて。」


ねぇ。

居なくならないで。









生きることが自傷行為であってはならない。


他人のために自分の身を削ってはいけない。

社会のために自分が犠牲になってはいけない。


わたしが『消耗品』であってはならない。


息がしやすい場所に居なければならない。

好きなことをしていなければならない。

やりたいことをやらねばいけない。


幸せになる罪悪感に殺されてはいけない。



生きることが創造であることを祈る。






今、わたしは、愛をイメージしている。









じんわり。

混ざり合う体温。



毎晩、クソ真面目に、人体を錬成している。


命を創造する。

呼吸を創り、汗を造る。

髪の毛の一本一本まで。


皮膚の細胞のひとつひとつまで。



肉体の生成を試みている。



禁忌を犯している気分だ。



イマジナリー彼氏。






*最終話




彼の身体。

左腕の、肘から手首にかけて。

振動の物質化に成功していた。



あなたを『こちらの世界』に連れてくるか。

わたしが『あちらの世界』に行くか。


……そんな二択ではないはず。


こちらの世界と、あちらの世界が、交わる場所。

そこに、新しい世界を創ろう。


イマジナリー彼氏。







産毛の一本まで創ろう。


「なぁ。」


「うん?」


「俺が君の世界に生きることは、できないよ。」


まさか、ハッキリ告げられるとは、思っていなかった。


「どんなに頑張ってもね。」


真正面から否定されて、安堵している自分がいる。


「君は俺との世界に来すぎちまったのかもしれない。」


「……ありがちだよね。」


彼の言う通りだった。

薄々気づいていた。

本当はわかっていた。

それでも、知らないフリをしていた。


「……そろそろ、お別れだ。」


「……やっぱり?」



彼は微笑む。

あたたかく、けれど、切なそうに。



「ごめんな。」


「……じゃあ、あと一日だけ。」


「おう。」


「明日までにしよう。」


「おう。」








お天気雨。

ぼんやり、夢見心地。


最後の食事。

最後の散歩。

最後の……。

最後の……。

最後の……。




断片的な世界。







黄昏の時。



「……そろそろ、お別れだ。」


「……やっぱり?」


あるときから、「これ以上はダメだ」と声がしていた。


いや、本当は最初からずっと、知っていた。

いつかこんな日が来ることを。


「もぉ~、そんな顔すんなって。二度と会えないワケじゃねぇんだからさ。」

「……遠距離恋愛ってこと?」

「う~ん、難しいことを聞くなぁ……。」

「あの世と、この世の、遠距離恋愛?」

「どう答えてほしいの。」

「……。」

「君の中に、答えはあるんじゃねぇの。」

「……。」

「俺は『君の中に戻る』だけだよ。」

「……。そっか。」

「元に戻るだけ。」

「うん。」

「そばに居るよ。」

「うん。」

「想いはいつも、ともに。」

「うん。」


嗚呼。

……神様。


「最後に、抱きしめて。」

「おう、もちろん。」


彼の匂い、ぬくもり、細胞のひとつひとつ……。


「……最後に、キスして。」


このとき、愚かにもようやく気づいた。


彼が泣いている。


どうして。

どうしよう。

涙なんて錬成していない。

そんなもの創ってない。

するわけない。


だけど、……。

紛れもなく、疑う余地もなく……。

彼を泣かしているのは、わたしなのだ。


それなのに、それなのに、……。

わたし、「ごめん」なんて、口が裂けても言えないんだ。


「わたし、とても幸せでした。」


「その言葉が聞けて、良かったよ。」


「ありがとう。」


過ぎてゆく時間。

薄れてゆく感覚。

ぼやけてゆく輪郭。

それでも、まだ聴こえる声。


「んじゃ、さようなら、の前に……。」


きっと最後の声。


「君にひとつ伝えたい。」


「なに?」


「俺に血を通わせようとするんじゃなくて、現実世界でそばに居る血の通った人たちと、友達になってみな。」


世界が溶けてゆく。


「君はもう大丈夫だからさ。」



溶けて、溶けて、溶けてゆく。






*エピローグ




彼との日々を、紫色の炎で燃やす。

感謝を込めて、天に送り出す。



ふと流れてきた音楽が、なんとなく胸に響いた。




私は

私とはぐれる訳にはいかないから


諦めて恋心よ

青い期待は私を切り裂くだけ


許してね恋心よ

甘い夢は波にさらわれたの


いつかまた逢いましょう

その日までサヨナラ恋心よ


あなたのそばでは

永遠を確かに感じたから


夜空を焦がして

私は生きたわ

恋心と


サウダージ / ポルノグラフィティ






恋なんて呼べないほどだった。


タブーを好奇心で覆い隠した。

彼を共犯に。

どこまでも行ける気がしていた。



とても優しい奇跡。

安心は本物だったよ。






ワンドに、彼のイニシャルを彫る。


禁忌に触れた経験を忘れないために。


ふたりの思い出のために。







これは、「一ヶ月と七日間」の記録。



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