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ゴミ哲学

「無意味」

毎朝、無意味さを再確認する。目を覚ますと、まず手に取るのはスマホ
曖昧な思考の中で、Twitterのタイムラインを眺める。クソリプ、冷笑、皮肉、惚気、承認欲求の嵐。そんな退廃的で煩い場所で、他者との共感や理解を見つけようとする自分がどれほど滑稽な存在であるかを痛感する。また今日も同じことの繰り返しだ

朝の薄明かりが部屋に差し込む中、布団の中でスマホを握りしめる。画面に映る無数のツイートがぼんやりとしかわからない。人はなんでこんなにも他者の意見や感情に関心を寄せるのだろうか。みんなの言葉は、ただの文字の羅列で、その背後には何の実体もない。それなのに、なぜ僕はこれに時間を費やしているのだろう?
そんなことを寝ぼけながら考える。

サルトルの言葉が脳裏をよぎる。「地獄とは他人だ」
彼の言及する他者との関係における苦痛や不快感は確かに日常に否応なく溢れている。それが自分の存在意義を見出す手がかりになるのだろうか
他者との共感や理解がどんな意味を持つのか、自分にはわからない。日々の生活の中で楽しさを見出し、他者と価値を分かち合うことにどれほどの意義があるというのか

ネットで互いに傷を晒し、舐め合い、慰め合ったところで、現実の苦痛や苦悩といった障壁は取り除かれない。むしろ、その傷は深まることもある。
他者との関係性は自由と選択を制約する一方で、そこに何の価値があるんだろう


「こうあるべき」

社会の道徳的義務を重んじる人達がここの考えを理解できるとは到底思えない。彼らは常に「正しいこと」を求め、他者を評価し、自己満足に浸る。その姿は滑稽で、嫌悪感を抱かせる。彼らは普遍的な道徳や規範に従うことが人間の本分だと信じている。だが、そんなものが誰かを救うことができるのだろうか。ただの自己欺瞞に過ぎない

朝食をとることは億劫で、義務感に駆られて無理に口にするパンとコーヒーは、無味乾燥な日常の象徴で、テレビではニュースキャスターが今日の出来事を淡々と伝える。どれもこれも他人事に過ぎない。そんな中、自分は思う。義務とは何だろう。
カントは『実践理性批判』で道徳的行為は普遍的な法則に従うべきだと説いた。だが、それは苦悩を解消するものだろうか

社会は義務を強要し、個々人の自由を抑圧する。彼らは「〇〇なら××するべきだ」と言うが、それでいいのか
何かに従うだけではなく、自分と向き合い、自分にとっての自由な選択を見つけるべきだ。これはその“べき論”じゃない、しない事も自由だし
でも思う、その自由や選択が何であるかを見つけるのは簡単じゃない、大変だ


「義務」
電車の中、皆、一様に疲れ切った表情をしていた。彼らもまた、何かの義務に縛られているのだろうか。「没個性的だ」何か、自分だけは違ってほしい、でも自分は彼らと同じように擬態し生きている。

窓の外を眺めながら、死の普遍性について考える。ハイデガーは『存在と時間』で「死への存在」としての人間のあり方を探求した。人は、日常の瑣末な事柄に没頭し自己欺瞞の中で生きる。死の不可避性を意識しこの自己欺瞞を打破して本来の存在に直面したとき人は何を見出すのか。実存的苦痛を誤魔化す無意味な存在はなにを見出せばいい?

死を見つめることで自己の本質を理解し、格律を捨てることができたら、あとはそれで無意味な人生の中で好きにすればいい。責任?そんな不条理なものを押し付けないでほしい。


「生きていればいいことある」

午後、存在忘却に励む。無数の書類や課題予定が山積みになっていた。その中で思う。「生きていればいいことがある、という言葉を言うやつ、欲求の階層を逆さまにして、質的な快楽を追求しろというのか? それができれば死への存在を無視して、不満足な何者かとして生きることができるだろうか

じゃあ、自分の存在価値や承認欲求は誰が満たしてくれるのだろう。欲望や意志が常に無限の苦痛をもたらす。やっぱり「生は苦しみで、死は解放だ」と思わざるを得ない。無意味な日々の中で、みんな何を求めているのだろう。 他者との関係が自分の存在を規定し、その関係性が無意味であるならば、自分の存在自体も無意味なのだろうか

シシュポスが果てしない労働に反抗し続けたように、僕もまた無意味な日常に抗うべきなのか。いや、反抗もまた無意味だ。意味のない存在がまた意味のないことをして意義を見出そうと反抗してもそれもまた、無意味であるからだ


「死ねばいいのに」
夜、部屋では明かりもつけずに、スマホを眺めてただ時間だけが過ぎていく。もし何かで量的に満たされたとしても、延々と次の欲望が湧き上がる。そして、その連鎖から逃れる方法は、意志の滅却しかない

「生きることが苦痛であるなら、死を選ぶことも合理的だ」 質的にも量的にも生きる意味を見失った存在にとってこれが「意味への意志」なのかもしれない。どうしようか?

自分が嫌いで、生きること自体が罰で、自分の存在自体が吐き気を催すほどの苦痛だ。他者との関係が自分の存在を規定したとしても、絶対的な意義を見いだせない。相対的でかつ、その倫理も無意味だ。自己否定の極限において、自分の存在を殺すことが究極の解放なのかもしれない。どうすればいい?

デカルトが「我思う、ゆえに我あり」と述べたが、思考そのものが無意味な自己を否定する虚無に帰する時、この反芻の前に何もすることもなく、ただ自分は苦痛を感じ存在するだけだ。思考すればするほど、無意味と苦痛が浮き彫りになる。考えること自体が意味ないとき、何を信じればいい?

存在そのものが無意味であると悟ったとき、僕はただこの無意味で嫌な存在を受け入れるしかない。無意味な日々の中で、何を求めるべき?

生きる教養のない人間に生きる意味を強要させることがどれほど無意味であるか。存在の意味の構築は個々人の経験や価値観に依存する。
無意味で存在することが苦痛だとしても、これは自分のせいだ。わかっている
でも社会の期待や義務に応えることに意味があるのか?自分の存在を正当化するために、意味を見出す努力を強いられることが、どれほど虚しいことか

存在そのものが無意味であると認識しながら、それでも生き続けることの矛盾。運命愛なんてゴミのような概念だが、それを受け入れることが逃げ道なのか?

朝。窓の外では、人が新たな一日を迎え、再び無意味な労働と義務に追われている。僕もまた、その流れに身を任せる。何の意味もなく。ただ存在することが罰であり、苦痛であるならば、これを流され生きて受け入れるしかない

無意味な日々を受け入れ、その中で小さな面白さを見いだすことが、人間の尊厳を保つ方法なのかもしれない

分かっている。疲れた。諦めている。



実はこんなこと考えていない
僕の解釈の話


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