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グレン・グールド

最近、ピアニストのグレン・グールドの作品を聴いている。ゴルトベルク変奏曲をはじめ、バッハの楽曲が多い。

以前から、ビル・エバンスの「ムーン・ビームス」や、キース・ジャレットの「ケルン・コンサート」、国内ではウォンウィンツァンさんなど、静かなジャズ系の部屋の空気が変わるような響きの演奏を、無意識に聴いていた。

だけれども、クラシックのピアノ曲はなかなか聴けずにいたが、ある日、やっと、グールドにたどり着いた。

グールドのバッハ曲の演奏は、その独自の解釈、一音一音ごとに区切る奏法や本来チェンバロを用いるところをピアノで演奏したりと、バロック調の匂いが薄まり、特にデビューアルバムであるゴルトベルク変奏曲(一回目の録音のほう。1956年に発表、モノラル録音)や、1959年のライブ録音は私のような入門者でも聴きやすい。

20代の若き日の演奏はテンポがとても速く、クラシックなんだけれども、popな感じさえして、「疾走感が凄いけれど、本当にバッハの曲なの?」と思ってしまうときさえある。

若き日のグールドが大聖堂のような構造のバッハの楽曲をグールド独自の世界観による解釈で私たちに優しく示してくれているような気がするし、バッハを演奏する純粋な喜びも感じられて、ゴルトベルク変奏曲だけでなく、他の楽曲も気がついたら最後まで聴き入っている。

(この文章は何度か書き直しているのですが、1956年発表のデビューアルバムのゴルトベルク変奏曲は、さすがに速すぎるかな?という気がしてきて、最近は1959年のライブ録音やコンサート活動引退後の30代中頃のTV収録の演奏を聴いていたりします···どれもモノラル録音)

グールドの若き日の演奏の動画は、モノクロ、モノラルの映像ではあるが、音楽の世界にどっぷりと深く入り込み演奏するグールドの表情に驚かされる。超越的な意識でもって演奏しているのでは?と思ってしまう時もある。

モノラル録音でも感動できるのは、きっと楽曲と演奏者の持つ魅力によるものなのでしょう。

聴衆を前にしたコンサート活動を一切やめてしまったグールドの30代前半以降は、テレビ、ラジオ、レコード録音などの媒体で活動するのですが、ドキュメンタリーの動画でも確認できるが、ピアノ独奏の楽曲でもグールド自身が空いた片手で指揮をするような仕草をしたり、メロディをハミングするときもある。

また、若い時から低い小さな椅子に腰掛けて、(お父さんの手作り椅子を使っていた時代もあるらしいが···)演奏しているので、どこか、微笑ましい。

こんなところもグールドの独自性なのだろうか。

こんなグールドの天才的な演奏の数々ではあるが、ドキュメンタリー映画や晩年の演奏動画を見ていると、「孤高の人」、「秘めた情熱」、「孤独感」などいろいろな想い、グールド自身の「光」と「影」を感じてしまう。

晩年に2回目のゴルトベルク変奏曲を録音しているのですが、若い頃の演奏とは変わって、テンポはゆっくりになっていて、映像も残っていて、グールドの姿にも少し老いを見て取れるが、演奏を聴いていると、ある種の『悟り』の境地さえ感じてしまう。聴いている側としては、ある種のせつなさ、はかなさといった感情を抱いてしまう。

2回目の録音のゴルトベルク変奏曲については、深すぎるので、自分のような、『にわかファン』が語るには早いと思うし、偉大な先人たちが語り尽くしていると思われるので深くは触れないでおきたい。

しかしながら、個性豊かなグールドの演奏に触れなければ、自分自身、バッハの楽曲を身近なものとして、感じられなかったと思う。

もちろん、グールドより上手い正統派のピアノ演奏者はたくさん存在するでしょうし、バッハ入門がグールドが適しているのかは正直なところ、わからない。

純粋にクラシック一筋のファンの方々よりも、ロックやジャズや他のアート分野の方々に好まれそうな気もする。

ただただ、グールドの演奏は私たちを惹き付けてやまない。

音楽を文字で表現するのはとても難しいですし、意味があるのだろうか・・と思うときもあります。またグールドの評論は多くの先人たちが語り尽くしてきたことでもあるのでしょうが、ここではあえて、特にグールドの若いころの演奏に触れて、その不思議な魅力にやっと気が付いたグールド入門者の拙い文章を久しぶりにnoteに投稿してみました。


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