あちらの世界の話
お盆ということで今回は、オンラインで販売させていただいている ”ミディアム” で繋がることができる、「虹の橋の向こう」「あの世」のお話についてです。
この頃はいろんな方が「覚醒後」のお話として、この世とあの世の仕組みであったり、次元の違いについてなどお話されていて、さまざまな情報が耳に入りますが、私自身が一番しっくり来ている現時点でのお話です。
あの世とは?
いわゆるコチラの世界から言う「死後の世界」というところですね。
昔々は「三途の川を渡って行く世界」「天国と地獄がある」みたいなイメージがスタンダードだったと感じますけれど、最近はどうでしょうか?
仏教の説法などでは四十九日の修行など、宗派によっても多少異なるかもしれませんが、亡くなった方は満中陰と呼ばれる三途の川のある場所で閻魔様や七日ごとに会う仏様との対話の中で、天国へ行くか地獄に行くかの沙汰をされる。と言われ、この世からの法要で徳を送り、少しでも極楽浄土へ導けるように…という教えもあります。
実際のところはどうなのでしょう?
誰もが亡くなった経験、記憶を持っているわけではないので、真相は体験してみないことにはわかりませんが、現在、私が持ち合わせている知識で説明してみたいと思います。
肉体を持つ世界と持たない世界について
最近では臨死体験をされた方や肉体を離れたものの戻ってこられた方の体験談などもオンラインで触れることができるようになりましたが、私が腑に落ちたと感じているのは、『生きて存在している間、私たちが肉体を持った個別の存在であると体感させ得るのは、脳の存在があるからだ。』というもの。
例えばこんな体験をしたことはありませんか?
ウトウトと寝落ちしてしまった際に、体勢が悪くて血の巡りが悪くなり、腕が痺れるほど圧迫してしまった結果、起きたらなんだか血の通いが遅くて感覚がない。みたいになり、だら〜んとチカラが入らなくなってしまうというようなこと。
まるで自分の腕じゃないみたいに、ぶらんぶらんしてしまう。
脳が指令を出しても届かないので、自分で動かすことができない。という状態になります。
触っても感触がなく、自分の体から腕がつながっているのにただぶら下がっている道具みたいに感じられたりします。初めて「腕」というパーツの重さを感じた覚えがあります🤭
その体験を踏まえて、脳に障害が起こる体験をした方のお話で、テーブルに手をついているはずの自分の手とテーブルの境目がわからなくなる。というお話。
見えている目の前の世界は、自分の手をテーブルについているはずなのに、その感触がない。そのうち、視界も手とテーブルの境がなくなり、溶けてひとつのもののように融合してしまう世界に見えた。というのです。
そのうちだんだん、衣服や靴、地面と自分の境目もわからなくなり、空気と自分さえ溶けてしまうような体験をされたという内容でした。
しばしば、脳の障害を体験された方が空間の認識ができなくなったり、物体の認識がわからなくなるというような話を聞きますが、まさに、物質を物質として認識できるのは、脳がこの肉体の神経などを制御し、別々の個体だと認識することができるからに他ならないなと感じます。
動物と人間の世界の見え方や聞こえ方が違うように、同じ空間、同じ次元に存在していると思っているけれど、相手から見えている世界は違うものだということもあるわけですよね。
(人間同士でも個人によって違いますよね。メガネが必要とか不要だとか、モスキート音聞こえるか聞こえないか…。あるいは、黒青ドレスか白金ドレスか?ピンクスニーカーかエメラルドグリーンスニーカーか問題など…。)
人間の脳の機能を通じて、私たちは「同じ空間で同じものを同じように見ている」という共通認識を持つことができているのが、この現世の世界。と言えるかもしれません。
近年、量子力学の解釈も広く知られるようになり、専門的に学んでいない私でも量子の存在についての認識を持つようになりましたが、まさに、肉体として自らが自分の「観察者」として、脳が監視しているからこそ、自分という「個」として存在し得ているのが私たち現世に生きている「人間」という存在なのだなと感じています。そして、同じ空間に居合わせている存在同士で監視・認識をし合ってこの地球上で生活をしています。
そして、亡くなる時には「生命」という「寿命」のようなものを全うし、肉体を離れる段になって初めて、その脳の機能が失われ、私たちの「魂」と呼ばれるものは肉体と離別し、いよいよ「あの世」と呼ばれる空間に融合されていく。それが、死後の世界への移行かなと言うふうに現時点は解釈しています。
死後、現世での自分の脳自体は、自分の肉体と魂との個別感を持たなくなりますが、まだ生命を維持している他の存在の方々によって、肉体そのものは「観察」し続けられますから、荼毘に伏されるまではその存在を保ちます。もちろん、荼毘に伏されたあとも、骨という形で物質として残ります。
量子が他者からの認識によって粒子として存在するということに等しいかなと思っています。
そして、魂は肉体に戻ることなく、「あの世」という世界へ移行する。
魂が行く先がどんなところか?というのが、いわゆる「死後の世界」になるんでしょう。
死後の世界への移行。魂とは何か?
よく、死後の肉体の重さを測ると、完全に亡くなられた後はほんの少し体重が軽くなり、それこそが、魂の存在そのものだ。なんていうお話を聞きますが、私には本当のところはわかりません。
ただ、ひとつには、エネルギーの重さなのかな?という風には感じています。
肉体から抜けた魂の存在は、この世界で経験した記憶や、最後に耳から聞こえたものを持って現世の私たちと同じ空間を去ることになります。
去ったからと言って、私たちの認識する「空間」から、すぐに離れてしまう人ばかりかというと、そうでもないようです。
魂というのは記憶を持ったエネルギー体のようなものなので、私たちの感覚でいう「個別感」のない存在です。
そこには法則やルールがあるのかはわかりませんが、時には、現世で言われる「浮遊霊」「地縛霊」と呼ばれるような存在として、私たちの近くを彷徨うこともあるようです。
思念が強かったり、執着、愛着が強いという場合にそこに残り続けてしまうのかもしれません。
個別感はないとはいえ、個人として存在した時の記憶を持ったエネルギーとして在ります。
三途の川など、視覚的に捉えている私たちが想像してきた世界とはちょっと違った「場所」へ還るというのがセオリーだそうです。
どんな場所かというと、私たちのいる場所は「時間+空間(縦・横・高さ)」の四次元と言われていますが、それ以上の次元空間だと思われます。というのも、現在、私たちのいる宇宙は十次元とも言われますが、正確に何次元まで存在するのか?は、まだ確認されていないのではないでしょうか?
一説には100次元以上あるとも言われているようです。
「すべてのものは同時に存在している」という話を聞いたことはありませんか?
時間も含め、私たちの肉体を持った概念とは異なる次元が存在し、それが無数と言えるだけ「在る」というのが事実で、おそらく魂のエネルギーはその次元へ還ると思われます。
心理学でも、ユングの唱えた「集合的無意識」というのが存在しますが、意識というのは全て無意識の領域で全ての人に共通して備わっているというもの。概念として、「意識」という存在が肉体の領域を超えたところにあるようなイメージです。
ガイア理論というのもありますが、地球自体が生命体として自らを維持する機能、意識を持っていると捉えたり、植物も独自の言語を持っているとか、さまざまな情報を集約すると、脳を持たない存在の意識さえもが同じく存在する領域の集合体みたいなものが在る。というイメージです。
その中で、仏教で教えられるような次元を辿って集合体の場所へ戻るルートを選ぶ魂もあれば、縁のある集合体へ一瞬で吸い込まれるように戻る魂もある。家族やペットが迎えに来てくれているetc…というような、それぞれの個性によるルートを経て、最終的には大きなエネルギーの集合体へ還る。
集合体には無数の、過去世からの個人の体験を持った意識がおり、それこそ、無数の量子の波を形成する粒の集合体のようなものが在る場所という感じで、ミディアムやイタコ、降霊・交霊で呼びかける魂というのは、そこに存在する当該の意識エネルギー(かつての故人・個人)に呼びかけているというイメージです。
故人の輪廻と魂、意識の存在
では、ミディアムやチャネリングでアクセスしたその故人の意識やエネルギー体が粒や波の状態で在るところと、現世の繋がりはどうなっているのかというと、いわば、その集合意識はマスターHDDみたいな場所とでもいいますか、あらゆる過去世もすべてそこに存在はするものの、魂のエネルギーとは別なので、また新たな決め事をして地球の生命体として生まれ変わることももちろんあります。ただ、故人であったころの意識や記憶などのエネルギーは集合体の中に在りますから、もしも生まれ変わりの段階を踏み出していたとしてもコンタクトを取った時にその意識エネルギーが応対してくれる状態であれば、HDDのメモリーを取り出すかのように、現世の方々はコミュニケーションを取ることが可能です。
つまり、生まれ変わってしまったからと言って、集合体に在る意識にアクセスできなくなるということではない。ということです。
故人であるという証明のためであったり、故人の意識の好みで、亡くなった当時の姿をしていると伝えてきたり、若い頃の姿に変容していたり、姿形で伝わることもあれば、概念としてエネルギーで伝えてくるということもある。
それは、受け取り手のミディアムの見え方や得意にもよってさまざまな受け取りをするようです。
ですが、実際には意識や記憶のエネルギーの波であり粒であるので、実際に形が存在するわけではありません。受け取り手が「視えている」と感じているだけです。(なので、人が変われば視え方、伝わり方も様々になるというわけですね)
宇宙が膨張し続けているというように、集合意識もまた、そうして人間としてや植物、動物としての集合意識の経験値が増え、広がり、膨らみ続けているということだそうです。
その膨大な集合意識の中に、ソウルグループのような仲間、縁のある存在があり、そこを拠り所にして輪廻を繰り返したり、課題を設けて過去世の意識を持ったまま生まれてくるエネルギーとして宿ることもあるようですが、『生まれる前からすべてを決めて生まれてくる』というお話も、本当はすべては同時に存在し、すべて既に在るものを、地球の人類としては物質的な体験をするため、四次元の制限の中での経験のために降りてくるというお話です。
現世はアトラクションやアミューズメントのようであり、また、修行の場、実験場でもあるのかもしれませんね。
お盆に故人を偲ぶ方へ
現世の制限の中、「決めてきた」と言われても受け入れ難い出来事もあったりします。
そんな時に、肉体をもった存在として会えなくなった故人とコミュニケーションを交わしたい、と思った時は、どうぞ、ミディアムシップなどで言葉を受け取る選択肢も利用してみてください。(クリエーターのTOPからリンクあります)
お仏壇やお墓で手を合わせ、思いを届けるだけでも通じていると思います。
ご自身でハッキリとした言葉で受け取れなかったとしても、あちらの世界へ還られた方は「愛」だけを向けてくれています。
どうか、そのエネルギーがいつも自らに降り注いでいるのだと思って、遠慮なく受け取って日々を過ごされてくださいませ。